儚くも消えた聚楽城 2の1
1. 聚楽第の造営と破却
天下を平定して文字通り「天下びと」となり、関白・太政大臣に任ぜられた豊臣秀吉は、天正15年(1587)平安京の大内裏跡である内野に、その地位にふさわしい政庁兼邸宅として聚楽第を造営して、大坂から移り住みました。
そして完成翌年の4月には、この豊臣政権の京都における象徴とも言える聚楽第に、後陽成天皇の行幸が行なわれました。
贅を尽くした荘厳で華麗な聚楽第のありさまを、『京町鑑』には「其構へ四方三千歩の石の築垣山のごとく 樓門を堅め鐵の柱銅の扉金銀を鏤め瑤閣星を錺り 御庭には水石を疊み花木を植さしめ造立し給ふ 結構譬るに物なし 城外の四方に諸侯の第宅をかまへ 樂を聚め觀樂を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記しています。
聚楽第跡の碑
また、日暮通の名称由来について『菟芸泥赴』には、「聚樂第の正門此街に當る。門の構造装飾極めて華麗にして。望見するもの日の暮るを知らずと。街名之に起る」書かれています。 つまり、日暮門があまりにも華やかで美しいため、それを眺める人々は日の暮れるのにも気がつかなかったと云うのです。
実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591)養子とした甥の秀次(姉である日秀の子)に、関白職とともに聚楽第を譲り、自身は太閤となります。そして、秀吉自身は宇治川や巨椋池を望む指月の丘に隠居屋敷を造営します。これが初期の伏見城にあたります。
しかし、聚楽第は完成から10年も経たない文禄4年(1595)、うたかたのように儚い結末を迎えます。
秀吉の愛妾である淀君が実子秀頼を生んだのをきっかけに、秀次は秀吉に疎まれることとなるのです。
そして、秀次は文禄4年(1595)6月謀反の疑いをかけられ、石田三成等の讒言もあって秀吉に高野山へ追放されます。そして、7月15日には切腹に追い込まれ、家臣5人も殉死します。
秀次の首は8月2日に三条大橋西南の河原で晒し首にされ、その首の前で係累を根絶するために遺児(若君4人・姫君)や側室・侍女・乳母ら39人も公開処刑で斬首されました。刑場脇に掘られた大きな穴にその多くの遺骸とともに秀次の首を埋めて塚が築き、その塚の頂上には石塔を据えて「秀次悪逆塚」と刻まれた。「畜生塚」とも「せっしょう(摂政・殺生)塚」とも呼ばれたと云う。
しかしその後、鴨川の氾濫などで塚は荒廃していたのですが、慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川を開削しているときに墓石が発掘され、その地(木屋町通三条下ル)に秀次一族の菩提を弔うため瑞泉寺と墓を建立しました。
豊臣秀次と一族の墓(瑞泉寺)
正面奥の六角石塔が秀次の墓とされ、その手前左右には遺児・妻妾など一族の墓がずらりと並んでいます。
秀次の切腹から程ない8月、秀吉は竣工後僅か8年にして聚楽第を徹底的に破却してしまいます。
先に引いた『京町鑑』には、「關白秀次公に此御所を譲り給ひしに程なく秀次公滅亡有 殿舎四方の樓門等諸寺に分て荒廢す 其地今人家となり(略)聚樂といひ地名に呼ぶ 今 町の小名に舊名所々に殘れるのみ」と記しています。
そして、聚楽第の建物は、その一部が築造中の伏見城に移築され、寺院へも寄進されたようで、西本願寺の飛雲閣・大徳寺の唐門はその遺構だとされます。
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