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2017年12月

2017年12月29日 (金)

看板いろいろ その18

麹種もやし(菱六もやし) その1
  東山区松原通大和大路東入二町目  
  種麹
  「もやし」というのは種麹のことで、酒造をはじめ醸造業には欠かせないもの。
  種麹を扱っているのは京都ではここだけで、全国でも六軒だけだそうです。

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麹種もやし(菱六もやし) その2

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宝蔵館 
  下京区正面通烏丸東入
  仏教書出版
  慶長7年(1602)創業とのこと

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芳 巌
  下京区東洞院通仏光寺上ル
  組紐

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2017年12月22日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の2)

2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?

 慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。

 それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。

 前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
 ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
 しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
 このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
 そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。

指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。

《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
  宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。

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《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
  集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。

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《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
  現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。

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《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
  参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。

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 それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南  東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。

 つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
 東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
 水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。

 ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在  古城山半ハ木幡山也  木幡山伏見山元ト一山也  東ヲ木幡山ト謂  西ヲ伏見山ト謂」 
 *「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
 木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。

 ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
 そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
 また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
 その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。

2017年12月15日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の1)

 唐突ですが、「伏見城」が幾つもあったということを知りませんでした。
 伏見城といえば、現在の伏見桃山丘陵にある明治天皇陵敷地の北端部分とその北側一帯が本丸跡、そして、そこから少し北西寄りのところに天守があったことを知るだけでした。
 ところが、いわゆる「伏見城」というのはこの一つだけではなく、全部で四つ(四度)も築造されており、その位置も移り変わっていたのです。
 現在、明治天皇陵の北側一帯は伏見桃山城運動公園になっており、その傍に「伏見桃山城」の大天守と小天守が聳えています。ところが、これはイミテーションで昭和39年(1964)に建造されたコンクリート製の城なのです。

《現在の「伏見桃山城」》

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 大天守は5層6階で小天守は3層4階、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」に建設されたが、平成15年(2003)に遊園地は閉園されている。

1. 伏見城の築城から破城まで

 太閤となった豊臣秀吉が最初に伏見「指月の丘」に築いた城跡、そしてそのあと幾度か築かれ、最後に徳川幕府によって廃城された「木幡山」の城、それらの「伏見城」跡とされる一帯を見に行ってきました。

① 秀吉の「指月屋敷」=最初の伏見城
 豊臣秀吉は、天正19年(1591)甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は太閤と称される。
 そして、翌文祿元年(1592)伏見の「指月の丘(指月の森とも)」に隠居するための「指月屋敷」を建てます。その場所は、現在の桃山町泰長老の辺り、JR「桃山」駅南側の一帯ということになります。

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 なお、これは隠居するための屋敷ですから、城と云うより邸宅として築かれたもののようです。

② 秀吉の「指月城」=2番目の伏見城
 ところが、文祿2年(1593)秀吉の側室である淀君に秀頼が生まれ、秀吉と秀次との関係が微妙なものとなり、秀次を跡継ぎとしていた考えを変えます。そして、秀次に謀反の疑いをかけて高野山に追放して自害させ、聚楽第は破却してしまいます。
 また、明の使節を迎えて講和交渉を行なうのに相応しい施設として、立派な城郭を必要としていたこともあり、文祿3年(1594)隠居屋敷として築いた「指月屋敷」を、天守や堀を備えた本格的な城郭「指月城」とすべく、大規模な整備拡張をおこないます。
 この時、宇治川を挟んだ対岸(南側)の向島に支城の「向島城」をも築き、宇治川には「豊後橋」を架橋します。

《大光明寺陵》

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 北朝の光明天皇・崇光天皇の陵ですが、船入のすぐ傍であるこの一帯に天守があったのか。

 しかし慶長元年(1596)、近畿一円に発生した巨大地震で、指月城や大名屋敷が倒壊しただけでなく、洛中の御所・寺社・民家にも甚大な被害を引き起こしました。
 このため、指月の丘の隠居屋敷と指月城が存在したのは僅か4年という短命の城でした。

③ 秀吉の「木幡山城」=3番目の伏見城
 慶長2年(1597)、秀吉は地震で城が倒壊してしまった指月の地を放棄して、そこから東北へ約1Km離れた木幡山(伏見山とも)に新たな「木幡山城」を築いて、完成すると秀頼とともに入城します。
 城の位置は、現・桃山町古城山(明治天皇陵)に本丸が、少し北西の現・桃山町大蔵に天守があったようです。

《明治天皇陵》

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この辺りに木幡山城の本丸があった模様。

 そして、城下の町づくりとともに水路および陸路の交通網整備がなされ、伏見は全国統治の拠点・政治都市となったのです。
 慶長3年(1598)秀吉はこの木幡山城で病没して、秀頼は大坂城に移り徳川家康が替わって入城します。

④ 家康の「木幡山城」=4番目の伏見城
 慶長5年(1600)、徳川家康が上杉(会津)征討に出た隙を狙った「伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)」で、西軍の総大将石田三成等の猛攻によって木幡山城は落城・焼失します。
:今日の朝日新聞朝刊に、このとき焼失した城跡で赤く変色した石垣の根石と、それを覆う焼けた土が出土したという記事が載っていました)

 ところが、続く慶長6年(1601)の「関ヶ原の戦い」では、徳川家康の率いる東軍が勝利します。そして、ついに覇権を握ります。
 家康は、慶長7年(1602)焼失した木幡山城を再建し、大坂城から伏見城に帰って政務を執ります。翌慶長8年(1603)に征夷大将軍に補任されて江戸幕府を開きますが、江戸城と伏見城を行き来していました。
 翌慶長10年(1605)に将軍職を三男の秀忠に譲ります。

⑤ 幕命により木幡山城は廃城
 元和9年(1623)、秀忠の次男である家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、破壊されました。

《廃城破壊された木幡山城の石垣の石》

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 いま私達が何となく思い浮かべる「伏見城」は、指月城(上記①②)ではなく、木幡山城(上記③④)なのです。

 ところで、初期の伏見城である指月城については記録が残っていません。そのため、『京羽二重織留』『山州名跡志』など地誌の記述は、文祿3年に「指月隠居屋敷」を城郭として拡張整備した「指月城」と、慶長2年に築城されて慶長5年に伏見城の戦いで焼失した「木幡山城」とを混同しているように思われます。
 たとえば、『山州名跡志』は次のように記しています。
「故城 伏見山ノ内御香宮ノ東ニ在リ 文祿三年秀吉公ノ造営也。奉行人佐久間河内守。瀧川豊前守。水野龜之介。石尾與兵衛等也。其後慶長五年七月晦日。石田三成ガ逆心同與力金吾秀秋。宇喜田秀家等。此城ヲ攻ル。江州永原ノ兵士敵ニ通ジテ落城ス。城ノ内ニハ鳥居彦衛門。内藤彌次衛門等討死ス。」
つまり、前段の文祿3年の件は指月城(指月の丘)の築城に関わる記述であり、後段の慶長5年の件は家康が上杉攻略に向かった隙を衝いて西軍の石田三成等が東軍鳥居元忠等が守る伏見城(木幡山城)を攻め落とした記述であって、両方の混同が見られる所です。

(次回へ続く)

 

2017年12月 8日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 23 

南区で

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伏見区で

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中京区で

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上京区で

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2017年12月 1日 (金)

珍しい鳥居

 鳥居にも変わったものが色々とあるようです。
 稲荷信仰は平安時代以降に広まったようですが、全国に三万以上もあるという稲荷神社の元締めが伏見稲荷大社です。稲荷大社は京都の観光地としてトップの座を占めますが、朱色の鳥居がズラリと並ぶ「千本鳥居」は外国人観光客には大人気のようです。

 ところで、「京都三珍鳥居」とも呼ばれる珍しい鳥居が三つあります。

木嶋神社(通称「蚕ノ社」)の鳥居
 右京区太秦森ヶ東町
 本殿右に養蚕(こかい)神社がある。

 

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 平安京が造営される前の京都盆地北部には、賀茂氏・渡来系の秦氏・出雲氏・粟田氏・八坂氏・土師氏などの氏族が土着していました。各氏族が勢力を張った地には、氏族の名前を冠した地名や氏神社・氏寺が今に至るまで伝わっています。

 古代の太秦は秦氏の勢力地であり、養蚕・機織・染色技術で繁栄したことに因んで祀られたことから、木嶋神社は蚕ノ社と通称される。
 元糺の池(もとただすのいけ)に建っている三つ鳥居。この池は禊の行場とされる。下鴨神社にある「糺」はここから移したと云われ、ここ木島神社の場合は元糺と言われるそうです。
 この鳥居は明神鳥居を三角形に組み合わせて建てられており、その真ん中の組石の神座には御幣が立てられていて、三方から拝むことができる。 
 この鳥居は、三つ鳥居・三面鳥居・三柱鳥居などと呼ばれる。

伴氏社(北野天満宮の枝宮=末社)の鳥居
 上京区御前通今小路上ル馬喰町

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 伴氏社は菅原道真が主祭神である北野天満宮の枝宮=末社で、北野天満宮境内三の鳥居の西(左脇)に鎮座する。

 往昔、ここに北野石塔(忌明塔と俗称)があったが、これを北野天満宮境内南西部にある觀音寺(東向觀音)に移し、その址に伴氏社を祀ったと云う。
 伴氏社は、大伴氏の出である菅原道真の母を氏神として祀っている。
 鳥居柱の下の亀腹(台座部分)に、蓮花が刻まれているのが珍しい。
 また、普通の鳥居であれば、笠木と島木の下にある額束が島木を突き抜けて笠木にまで達している。
 なお、北野石塔(忌明塔)は菅原是善の墓、あるいは伴氏の墓、三好清行の墓などとも云われるようだが、ハッキリしないと云う。服喪期間の終わる忌明けは現代でも行なわれています。

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厳島神社の鳥居
 上京区京都御苑

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 厳島神社は、堺町御門を入った西側の九条池畔にある。藤原氏は古代に興り、盛衰を経て近世に至るまで続いた氏族・貴族です。その末孫にあたる関白兼実を家祖とする五摂家の一つ、旧・九条家邸の鎮守社が厳島神社で今も残っている。

 石鳥居の柱に支えられた笠木と島木が唐破風のように湾曲している。
 唐破風は神社建築・城郭建築・寺院などに見られ、建築入口屋根の装飾として付けられる。また、この装飾は神輿・山車・厨子・仏壇・墓などにも装飾として使われている。

 ところで、京都御所には次の写真のように、寝そべったような珍しい桜の木があります。
 この桜、鳥が桜の実を食べて糞とともに松の樹上に排泄したのでしょう。もともと幼木の頃には松の巨木のテッペンで花を咲かせていた寄生木(やどりぎ)です。
 松が朽ちるにしたがい、幹の空洞から根を地面まで延ばしてゆき、松が朽ちて倒れたあとも桜だけは生き延びているのです。

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