「伏見城」は幾つあったの? (2の1)
唐突ですが、「伏見城」が幾つもあったということを知りませんでした。
伏見城といえば、現在の伏見桃山丘陵にある明治天皇陵敷地の北端部分とその北側一帯が本丸跡、そして、そこから少し北西寄りのところに天守があったことを知るだけでした。
ところが、いわゆる「伏見城」というのはこの一つだけではなく、全部で四つ(四度)も築造されており、その位置も移り変わっていたのです。
現在、明治天皇陵の北側一帯は伏見桃山城運動公園になっており、その傍に「伏見桃山城」の大天守と小天守が聳えています。ところが、これはイミテーションで昭和39年(1964)に建造されたコンクリート製の城なのです。
《現在の「伏見桃山城」》
大天守は5層6階で小天守は3層4階、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」に建設されたが、平成15年(2003)に遊園地は閉園されている。
1. 伏見城の築城から破城まで
太閤となった豊臣秀吉が最初に伏見「指月の丘」に築いた城跡、そしてそのあと幾度か築かれ、最後に徳川幕府によって廃城された「木幡山」の城、それらの「伏見城」跡とされる一帯を見に行ってきました。
① 秀吉の「指月屋敷」=最初の伏見城
豊臣秀吉は、天正19年(1591)甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲り、自身は太閤と称される。
そして、翌文祿元年(1592)伏見の「指月の丘(指月の森とも)」に隠居するための「指月屋敷」を建てます。その場所は、現在の桃山町泰長老の辺り、JR「桃山」駅南側の一帯ということになります。
なお、これは隠居するための屋敷ですから、城と云うより邸宅として築かれたもののようです。
② 秀吉の「指月城」=2番目の伏見城
ところが、文祿2年(1593)秀吉の側室である淀君に秀頼が生まれ、秀吉と秀次との関係が微妙なものとなり、秀次を跡継ぎとしていた考えを変えます。そして、秀次に謀反の疑いをかけて高野山に追放して自害させ、聚楽第は破却してしまいます。
また、明の使節を迎えて講和交渉を行なうのに相応しい施設として、立派な城郭を必要としていたこともあり、文祿3年(1594)隠居屋敷として築いた「指月屋敷」を、天守や堀を備えた本格的な城郭「指月城」とすべく、大規模な整備拡張をおこないます。
この時、宇治川を挟んだ対岸(南側)の向島に支城の「向島城」をも築き、宇治川には「豊後橋」を架橋します。
《大光明寺陵》
北朝の光明天皇・崇光天皇の陵ですが、船入のすぐ傍であるこの一帯に天守があったのか。
しかし慶長元年(1596)、近畿一円に発生した巨大地震で、指月城や大名屋敷が倒壊しただけでなく、洛中の御所・寺社・民家にも甚大な被害を引き起こしました。
このため、指月の丘の隠居屋敷と指月城が存在したのは僅か4年という短命の城でした。
③ 秀吉の「木幡山城」=3番目の伏見城
慶長2年(1597)、秀吉は地震で城が倒壊してしまった指月の地を放棄して、そこから東北へ約1Km離れた木幡山(伏見山とも)に新たな「木幡山城」を築いて、完成すると秀頼とともに入城します。
城の位置は、現・桃山町古城山(明治天皇陵)に本丸が、少し北西の現・桃山町大蔵に天守があったようです。
《明治天皇陵》
この辺りに木幡山城の本丸があった模様。
そして、城下の町づくりとともに水路および陸路の交通網整備がなされ、伏見は全国統治の拠点・政治都市となったのです。
慶長3年(1598)秀吉はこの木幡山城で病没して、秀頼は大坂城に移り徳川家康が替わって入城します。
④ 家康の「木幡山城」=4番目の伏見城
慶長5年(1600)、徳川家康が上杉(会津)征討に出た隙を狙った「伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)」で、西軍の総大将石田三成等の猛攻によって木幡山城は落城・焼失します。
(註:今日の朝日新聞朝刊に、このとき焼失した城跡で赤く変色した石垣の根石と、それを覆う焼けた土が出土したという記事が載っていました)
ところが、続く慶長6年(1601)の「関ヶ原の戦い」では、徳川家康の率いる東軍が勝利します。そして、ついに覇権を握ります。
家康は、慶長7年(1602)焼失した木幡山城を再建し、大坂城から伏見城に帰って政務を執ります。翌慶長8年(1603)に征夷大将軍に補任されて江戸幕府を開きますが、江戸城と伏見城を行き来していました。
翌慶長10年(1605)に将軍職を三男の秀忠に譲ります。
⑤ 幕命により木幡山城は廃城
元和9年(1623)、秀忠の次男である家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、破壊されました。
《廃城破壊された木幡山城の石垣の石》
いま私達が何となく思い浮かべる「伏見城」は、指月城(上記①②)ではなく、木幡山城(上記③④)なのです。
ところで、初期の伏見城である指月城については記録が残っていません。そのため、『京羽二重織留』『山州名跡志』など地誌の記述は、文祿3年に「指月隠居屋敷」を城郭として拡張整備した「指月城」と、慶長2年に築城されて慶長5年に伏見城の戦いで焼失した「木幡山城」とを混同しているように思われます。
たとえば、『山州名跡志』は次のように記しています。
「故城 伏見山ノ内御香宮ノ東ニ在リ 文祿三年秀吉公ノ造営也。奉行人佐久間河内守。瀧川豊前守。水野龜之介。石尾與兵衛等也。其後慶長五年七月晦日。石田三成ガ逆心同與力金吾秀秋。宇喜田秀家等。此城ヲ攻ル。江州永原ノ兵士敵ニ通ジテ落城ス。城ノ内ニハ鳥居彦衛門。内藤彌次衛門等討死ス。」
つまり、前段の文祿3年の件は指月城(指月の丘)の築城に関わる記述であり、後段の慶長5年の件は家康が上杉攻略に向かった隙を衝いて西軍の石田三成等が東軍鳥居元忠等が守る伏見城(木幡山城)を攻め落とした記述であって、両方の混同が見られる所です。
(次回へ続く)
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