2018年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

リンク集

無料ブログはココログ

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »

2018年1月

2018年1月26日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の4

Ⅳ. 「長坂口」から「長坂越え」を行く

 「長坂口」(「北丹波口」「蓮台寺口」とも)は、千本通北端の鷹峯にありました。「長坂越え(北丹波路)」は、鷹峯から京見峠を経て杉坂に至る道で、丹波・若狭へ通じており古道「丹波道」にあたる。

《長坂口跡付近》 

_01_6

 

 現在、料亭「然林房」の東側を北上する道(府道31号)は新しい道であり、然林房の西側の千束から一ノ坂・長坂を経て堂ノ庭に出る旧道が、本来の「長坂越え」だったのです。
 鷹峯は古代末から軍事上の要衝であり、また物資の集散地でもありました。
 しかし、近代になって京都西北の双ヶ丘の西側を起点に、宇多野・高雄を経て周山に至る「周山街道」が開通します。そのために、杉坂口で長坂越えと合流してはいるのですが、かつての要衝地としての鷹峯は寂れ衰えてしまいます。 
 なお、近世までの山国庄(現・京北町のR477沿道一帯)は禁裏御料所(皇室の所有地)であったため、長坂越えはその経路にあたることから「山国路」とも称されたようです。
 ちなみに、明治28年に始まった京都の時代祭は10月22日に行なわれますが、この日は桓武天皇が平安京に奠都した日に当たると云うことです。この祭の時代行列では山国鼓笛隊が先頭を勤めています。これは明治維新の戊辰戦争の折に山国隊を組織して戦った功により参加しているとのことです。

《長坂越え》 千束付近

_01_7

《手作りの道標》

_01_9

 

「長坂口」から長坂越えで若狭へ向かう経路には、杉坂の先で幾つかのルートに分かれていました。
 ちなみに、『山城名跡巡行志』には、「杉坂ノ村口ニ石標有リ 右ハ山國周山道 左ハ若狭道ト」とある。

1. 雲ヶ畑を経由するルート
 このルートは『稚狭考』の「八原へ出ずして澁谷より弓削・山國に出て行道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、持越峠、雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。

2. 深見峠から北ヘ美山を経て名田庄まで縦断するルート
 このルートは『稚狭考』の「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、周山、深見峠から北上、河内谷(ホサビ山の東麓)、美山の「中」へ、知見口から北上、知見・八原を経て、八ヶ峰知見坂(山城・若狭の国境)、(名田庄)槙谷・堂本を経て、小浜に至る。
 このルートは、前記「1.雲ヶ畑を経由するルート」に比べて距離が相当短くなるため、古くから利用されていたようです。

3. 清滝川沿いに行くルート
 《経路》 長坂口、杉坂、供御飯峠、(笠峠手前)小野、清滝川沿いに大森へ、西、茶呑峠、天童山、飯森山、(京北)井戸へ。
 そして井戸から先は、上記「1.雲ヶ畑を経由するコース」と同じ。

4. いわゆる西の鯖街道ルート
 《経路》 長坂口、千束、長坂、京見峠、杉坂、中川、小野、笠峠、細野、周山、弓削、深見峠、美山、堀越峠(山城・若狭の国境)、口坂本、名田庄、小浜へ至る。

   ー以上で本シリーズは終りですー

2018年1月19日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の3

Ⅲ. 「鞍馬口」から「鞍馬街道」を行く

 「鞍馬口」は、賀茂川に架かる出雲路橋の西詰め辺りにあったようで、「出雲路口」とも呼ばれた。 「鞍馬街道(丹波路)」は鞍馬寺・貴船神社への参詣道で、丹波・若狭へとつながる道でした。

《出雲寺鞍馬口石碑》
 鞍馬口から賀茂川の左岸(東側)へ渡り、深泥池を経て鞍馬街道は延びる。

Photo

 

 『京羽二重』は鞍馬街道の道筋を、「寺町通の北の頭町野へ出る みぞろ池 はたえだ村 市わら くらまみち也」と記しています。
 引用文中の「みぞろ池」というのは「深泥池」のことで、時代により「御菩薩池」「泥濘池」「美度呂池」「美曾呂池」などといろいろに表記されたようです。 なお、その昔には深泥池の西側付近に「若狭口」というのがあったようです。

 それでは、「鞍馬口」を起点とする「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 その《経路》はいずれも、鞍馬口、深泥池、幡枝、市原、野中、二ノ瀬、貴船口(落合)までは同じですが、その先で分岐しています。
 鞍馬川と貴船川が合流する落合(貴船口)で鞍馬街道から別れて、貴船川に沿った貴船道を行くと、貴船・丹波へと至る丹波路となります。

《鞍馬街道》
 右手の川は鞍馬川です 

_01_4

1. 鞍馬を経由するルート 
①久多の東部から針畑越えを行くコース

 このルートは『稚狭考』の「遠敷より根来・久田・鞍馬へ出る」に該当します。 『山城名跡巡行志』には、このコースを「久多越え」「小川越え」と記している。
 貴船口から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、百井、大見、尾越、八丁平、オグロ坂峠、久多川合から針畑川を上流へ、朽木小川、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。
 これは、若狭小浜と京都を結ぶ数あるルートの中では、距離的に最も短いルートとなっています。
②広河原から美山を経るコース

 落合から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、花背、大布施、広河原、佐々里峠(山城・桑田郡界)、佐々里、芦生、田歌から北上して五波峠(丹波と若狭の国境)を越え、染ヶ谷、堂本、名田庄、小浜へ至る。

2. 貴船経由で丹波路を行くルート
 落合(貴船川と鞍馬川の合流点)から先の《経路》は、貴船、芹生、灰屋、(京北)上黒田へ。
 そして、上黒田から先は、次の2ルートがある。
①上黒田から西行して井戸を経由するコース
 井戸から北上する。
 井戸から先の《経路》は、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里へ。
 佐々里からは、上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。
②上黒田から東行して大布施を経由するコース

 大布施から先の《経路》は、これも上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

3. 久多の西部から美山を経由するルート
 《経路》 久多、能見峠(久多峠)、広河原下之へ。
 広河原から先は、やはり上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

4. 上賀茂から雲ヶ畑を経由するルート
 《経路》 上賀茂、柊野、車坂、雲ヶ畑へ。
 雲ヶ畑から先は、次のような《経路》となる。
 雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。
(これは、次回の記事中「Ⅳ.長坂口から長坂越えを行く」の「1.雲ヶ畑を経由するルート」に同じ)

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

_01_2

 

 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

_01_3

1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

_01

 

 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、出入口の総称したものでした。

 なお、「京七口」は時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます

 皆様には良い正月をお迎えになりましたでしょうか。

Dscn0796_01

 それにしても、世間はこのところずっときな臭く、また危なっかしい様相が続いています。
 「酒は憂いの玉箒」と言い、また「酒は天の美禄」とも言うようです。
 新年を祝い良い年であることを願って、ただいま美禄をいただいているところです。

  朝もよし晝もなほよし晩もよし
    その合々にちょいちょいとよし  蜀山人

  なにもかもウソとなりたる世の中に
    マコトは酒のうまさなりけり   山頭火


 このブログは古稀になってから始めたのですが、早くも6年余りとなりました。
 始めたきっかけは、惚け防止のためでした。 動機が不純か?!
 しかしよくぞ続いたものと我ながら感心します。
 地味〜なブログですが、訪問いただく方々がそれなりに増えてきました、ありがたいことです。
 そんなことで、できればいま少しは続けたいものと思っています。(やめるのはいつでもできますから)
 今後ともお付き合いいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

« 2017年12月 | トップページ | 2018年2月 »