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2018年4月

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

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《舎密局跡

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 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

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 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

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 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

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 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年4月13日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 1

このシリーズの内容
 今 回:1. 明治政府の成立と東京遷都
 次 回:2. 産業振興とインフラ整備
 次々回:3. 日本で最初の小学校設立

1:明治政府の成立と東京遷都

 慶応3年(1968)10月に大政奉還、同12月に王政復古で幕府が廃止されて、倒幕派(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)による明治政府が成立します。
 そして、翌4年(1868)9月8日に「明治」と改元しました。なので、言ってみれば今年はちょうど明治150年にあたります。
 延暦13年(794)、桓武天皇が都を京都に移し平安京と称して以来、明治2年(1869)まで千百年もの長い間、京都は王城の地(首都)でした。
 けれども、江戸時代も中期以後になってくると徐々に政治の中心は江戸へ、経済の中心は大坂へと移っていき、王都としての京都はその地位が徐々に低下していきます。しかし、古くから受け継がれてきた伝統芸能をはじめ、さまざまな文化の継承や、天皇のおられる王城の地としての自信と誇りは保っていました。

《二条城二の丸御殿》
 徳川家康が将軍の宣下を受けたのも、徳川慶喜将軍が在洛中の40藩重臣を招集して大政奉還を諮問したのもここでのことでした。
 つまり、江戸幕府(徳川幕府)の始まりも、終焉を迎えたのもここだったのです。

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《京都御所  建礼門》
 御所の正門です。背後に見える大きな屋根は紫宸殿で、即位礼など重要な儀式が行なわれるときに建礼門が開扉された。

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《御常御殿》
 御池庭から見た御常御殿。天皇の住いで、儀式・対面のための場所や神器を納める部屋もあった。

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 ここで、江戸末期から明治維新にかけての、京都の変化を大雑把に見てみましょう。 

慶応2年(1866) 12月25日 孝明天皇が崩御
慶応3年(1867)正月9日 皇太子が天皇の位を受継ぐ
 同3年(1867)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を請う
慶応4年(1868) 7月17日  江戸で政務を執り東京と 改称する
   同年 8月27日  皇太子が御所紫宸殿で即位し明治 天皇となる
   同年 9月8日 「明治」と改元され明治元年となる
明治元年(1868)10月13日 天皇が東京へ行幸
   同年 10月13日 江戸を東京と改称
   同年 12月22日 天皇が京都にひとまず還幸
明治2年(1869)2月24日 太政官を東京に移し京都に は代理者の留主官を置く
   同年 3月28日   再び天皇が東京に行幸(崩御まで東 京に居住)

 江戸幕府(徳川幕府)が崩壊して、新政府の樹立で明治維新を迎えると、初めは京都に中央政府が設けられました。
 天皇が最初の東京行幸から戻られた翌年の正月6日、京都の町人総代として各町から1人ずつを建礼門前に召され、紫宸殿を拝して天盃を賜る栄誉に浴します。

 しかし、明治2年(1869)、正式に東京遷都の勅(天皇の命令)が出されることもなく、天皇皇后が再び東京に行幸啓されて東京城(元・江戸城)に入城、三種の神器も奏された。
 そして、政府の最高機関である太政官が東京へ移設されたのをはじめ、京都にあった中央行政機関も廃止されて、事実上の東京遷都が行なわれたことで京都は衰退に追い打ちをかけられます。

 かつて、天皇の住いである「御所」の周囲は、皇族や公家達の屋敷が建ち並ぶ公家町でした。
 しかし天皇だけではなく、皇族・華族(公家)とともに有力商人たちもが東京に引き移ってしまったため、一帯はすっかり寂れ果ててしまい、さながら「狐狸の棲家」といった様子になったと云う。
 現在の御所と京都御苑は、その四囲が寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通沿いに石築地で囲まれ、都会の喧噪と隔絶した緑の豊かな空間となっています。これは、かつてあった多くの公家屋敷を取り壊してできた跡なのです。

《清水谷邸の椋》
 御所の南西角の近くで公家の清水谷家屋敷の跡です。この椋は幹周り約4mで樹齢300年程とされる。
 幹の左脇遥か後方に「禁門の変」で知られる「蛤御門(新在家御門)」が見えている。

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 幕末の元治元年(1864)7月19日、御所蛤御門付近で尊王攘夷派(長州藩)と公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が起こした「禁門の変」では、御所蛤御門付近と長州藩屋敷(今の京都ホテルオークラ)付近から出火して、21日まで燃え続けた。
 この夥しい被災で京都市街地の大半、約800町・27,517軒の家屋が焼失したが、この大火は「どんどん焼け」とも「鉄砲焼け」とも云われた。
 そして、この大火による被災地の復興は明治維新にまで延引したため、京都にとっては近代化の事業とともに大きな課題になったようです。


 ともあれ、衰微の危機に瀕した京都は、復興と近代化をかけて起死回生の策を講じる必要に迫られます。

 次回と次々回の2回にわたって、どのような復興策を採ったのかを見たいと思います。

2018年4月 6日 (金)

春爛漫

 ・・・といえば、やはり桜でしょうか。

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 あだなりと花に五戒の桜かな
  宝井其角

 華やかにして艶やかな桜の花を前にして、五戒の教えもヘッタクレもあるかッ!
 笑止千万、そんな野暮な教えなんぞ守っちゃーおれんッ、無意味だよー。
 さあッ! 呑んで騒いでドンチャン騒ぎといこうぜッ! 
 ・・・とまぁ、こんな解釈でどんなものでしょうか。

 余計なことながら「五戒」についての注釈を。
 在家の仏教信者が守らねばならない、五つの戒めだそうです。

 不殺生戒(生きものを殺してはいけない)
 不偸盗戒(盗みを働いてはいけない)
 不邪淫戒(伴侶以外との性行為はいけない)
 不妄語戒(嘘をついてはいけない)
 不飲酒戒(酒を飲んではいけない)・・・これだけはチョット無理だ


 話は変わります。
 桜の開花宣言が出されるのは、その土地の標本木に花が五つ六つ咲いた時です。
 ちなみに、開花予測の仕方は、ソメイヨシノの蕾(つぼみ)10個の重さが1gになった時だそうで、その10日程あとには咲くそうです。

 農村の桜の古木は、「種蒔き桜」「田打ち桜」「田植え桜」などと云われ、暦代わりとされていました。 

 昔から農家の人々にとって、作物の種をおろす時期というのは、重大な関心事でした。その時期を誤ると、実りと収穫量に大きな影響を受けるからです。
 遅すぎず、早すぎず、季節の移ろいを観察して、適切な時期を見定めなければなりません。
 そのため、草木の芽吹き、花の開花、鳥の鳴声、高山の雪型(融け具合)など、自然の変化を見て農作業を始める目安としてきました。(自然歴・農事暦といわれる)

 ・・・で、花の写真を幾つかご覧ください。

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