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2018年4月27日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 3

3. 日本で最初の小学校設立

 京都の再興と近代化では、「官」「民」挙げての努力がありましたが、前回に見た「産業振興と都市インフラ整備」は、「官」の主導によるものでした。
 今回は「民」つまり市民が大きな役割を果たして進められた、教育環境の整備=「小学校の創設による人づくり」を取り上げます。
 明治元年(1868)、江戸時代の庶民のための初等教育機関は寺子屋でしたが、これに代わる小学校を各町組に一校ずつ創設することが計画されました。
 特記すべきはその設立方法で、土地・施設などの一切を町組(住民)の負担により設置するというものでした。

 明治新政府は、明治5年(1872)7月に「太政官布告第二百十四号」により、日本で最初の学校制度を設けます。
 ところが!ナント!!京都ではそれに先駆けること3年、全国で最も早く明治2年(1869)、各町ごとに「番組小学校」を独自の方法で設立していたのです。

《太政官布告第214號》

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 太政官布告の一部を抜き書きしてみます、
「(略)自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸ナク 家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス  人ノ父兄タルモノ宜シク此意ヲ體認シ 其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ス學ニ従事セシメサルヘカラサルモノナリ(略)」としています。
 そして、そのあとに「幼い子供は男女を区別せず、小学校で学ばせなければその父兄の落ち度とするゾ!」として、「屹度(強く)申し付けるからナ」と云った感じで権柄尽くに命じています。この高圧的なところは、現代の感覚からするとむしろ可笑しさを覚えます。
 しかし、寺子屋の頃は女子は学べなかったようですから、画期的な学制といえます。

 明治元年、京都府は小学校設置にあたって、近世までの住民自治組織「町組」を改組します。
 そして、住民自治の組織である町組の再編と併せて、各町組の町会所に附設する形で1校ずつの小学校設置を決定したのです。
 翌明治2年、さらに町組の編成替えをして上京・下京ともに各33町組、計66町組としました。そして、この再編に合わせて各町組に番号を付して「番組」としたのです。
 こうして、番組ごとに上京・下京とも32校ずつ、計64校の番組小学校を一斉に建設・開校しました。
 【註】:学校数が番組の数と同じ66校ではなく2校少ない64校となったのは、番組の区域が狭小であるため上京では八番組と九番組で1校(のちの仁和校)を、下京は二十二番組と三十二番組で1校(のちの淳風校)を建設したためでした。

 こうして、全ての番組で小学校を建設・運営することとなり、そのため、番組の有力者が用地を寄付し、建設と運営のための資金は竃金あるいは醵金により、つまり住民が分担金を出し合い独立採算で学校を設置しました。
 その際、番組によっては会社組織(小学校会社)を設け、集まった資金を運用してその利益を充てましたが、資金が不足する場合には10年返済の条件で府から貸し出しを受けました。

 このとき、自分達の番組小学校として、教室等の教育施設だけではなく、住民自治に必要な町会所等の施設が併設されました。そして、総合庁舎的に京都府の出張所としての機能も持たせるよう構想されたようです。
 こうした設置の経緯から、現在に至るまで小学校と地域(住民)との結びつきには強いものがあるのです。
 各校が所蔵する資料・沿革史などによると、自治・行政機能を果たす施設が校舎の前面に配置され、教室などの施設はその背後あるいは上階に付設する形で配置されたようです。
 教育施設と同居していた地域行政・住民自治のための施設としては、番組役員の詰める役場・町総代溜・総代溜・区内事務室など、そして巡査詰所や消防の詰所、防火や時刻を知らせるのための太鼓望楼などが設けられた。

《旧有済小学校の太鼓望楼》
 太鼓を叩いて番組の住民に時刻や火事を知らせた。各校に設けられていたが明治末には姿を消し、残るのはこれだけとなり登録有形文化財に指定されている。
 昭和に入って建て替えに際して屋上に移設された。


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 なお、近年は小中学校の統廃合が進んでいますが、校舎などは歴史的価値があるため、新しい機能・役割をもって引き続き保存活用されているものが多い。
下京第三番組小学校(明倫小学校)⇒京都芸術センター
下京第十一番組小学校(開智小学校)⇒京都市学校歴史博物館
下京第十八番組小学校(菊浜小学校)⇒ひと・まち交流館京都
ほかに、第二日赤救命救急センター・こどもみらい館・教育相談総合センター・養護学校・特別養護老人ホームなども元小学校の施設が活用されている。

《京都芸術センター(元・有隣小学校)》

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《京都市学校歴史博物館(元・開致小学校)》


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【註】:ちなみに、その後、地域行政組織の単位名称は「番組」から、明治4年(1871)に「区」へ、明治12年(1879)には「組」へ、そして明治25年(1892)に「学区」へと変わりました。
 「番組」から「組」の時期までは小学校名称は番号だったのが、「学区」に変わった時にそれぞれに固有の名称が付けられました。その命名の仕方は地元の町名に合わせたり、平安京内裏の施設名や条坊名、四書五経などの漢籍から選んだ熟語と云ったように、学区ごとに自由に選んで命名しています。
 また、昭和16年4月には「小学校」が「国民学校」と改称されます。そして、この時期をもって地域が学校を運営する「学区」は終り、小学校の土地・建物といった学区財産は京都市へ移管(寄附)されました。
 しかし、「学区」がかつてのような行政上の単位でなくなっても、また、住民自治の単位であった旧番組小学校が統廃合で無くなっても、依然として現在に至るまで「元学区」が行政からの伝達単位として機能し続けています。



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