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2018年4月13日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 1

このシリーズの内容
 今 回:1. 明治政府の成立と東京遷都
 次 回:2. 産業振興とインフラ整備
 次々回:3. 日本で最初の小学校設立

1:明治政府の成立と東京遷都

 慶応3年(1968)10月に大政奉還、同12月に王政復古で幕府が廃止されて、倒幕派(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)による明治政府が成立します。
 そして、翌4年(1868)9月8日に「明治」と改元しました。なので、言ってみれば今年はちょうど明治150年にあたります。
 延暦13年(794)、桓武天皇が都を京都に移し平安京と称して以来、明治2年(1869)まで千百年もの長い間、京都は王城の地(首都)でした。
 けれども、江戸時代も中期以後になってくると徐々に政治の中心は江戸へ、経済の中心は大坂へと移っていき、王都としての京都はその地位が徐々に低下していきます。しかし、古くから受け継がれてきた伝統芸能をはじめ、さまざまな文化の継承や、天皇のおられる王城の地としての自信と誇りは保っていました。

《二条城二の丸御殿》
 徳川家康が将軍の宣下を受けたのも、徳川慶喜将軍が在洛中の40藩重臣を招集して大政奉還を諮問したのもここでのことでした。
 つまり、江戸幕府(徳川幕府)の始まりも、終焉を迎えたのもここだったのです。

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《京都御所  建礼門》
 御所の正門です。背後に見える大きな屋根は紫宸殿で、即位礼など重要な儀式が行なわれるときに建礼門が開扉された。

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《御常御殿》
 御池庭から見た御常御殿。天皇の住いで、儀式・対面のための場所や神器を納める部屋もあった。

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 ここで、江戸末期から明治維新にかけての、京都の変化を大雑把に見てみましょう。 

慶応2年(1866) 12月25日 孝明天皇が崩御
慶応3年(1867)正月9日 皇太子が天皇の位を受継ぐ
   同3年(1867)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を請う
慶応4年(1868) 7月17日  江戸で政務を執り東京と 改称する
   同年 8月27日  皇太子が御所紫宸殿で即位し明治 天皇となる
   同年 9月8日 「明治」と改元され明治元年となる
明治元年(1868)10月13日 天皇が東京へ行幸
   同年 10月13日 江戸を東京と改称
   同年 12月22日 天皇が京都にひとまず還幸
明治2年(1869)2月24日 太政官を東京に移し京都に は代理者の留主官を置く
   同年 3月28日   再び天皇が東京に行幸(崩御まで東 京に居住)

 江戸幕府(徳川幕府)が崩壊して、新政府の樹立で明治維新を迎えると、初めは京都に中央政府が設けられました。
 天皇が最初の東京行幸から戻られた翌年の正月6日、京都の町人総代として各町から1人ずつを建礼門前に召され、紫宸殿を拝して天盃を賜る栄誉に浴します。

 しかし、明治2年(1869)、正式に東京遷都の勅(天皇の命令)が出されることもなく、天皇皇后が再び東京に行幸啓されて東京城(元・江戸城)に入城、三種の神器も奏された。
 そして、政府の最高機関である太政官が東京へ移設されたのをはじめ、京都にあった中央行政機関も廃止されて、事実上の東京遷都が行なわれたことで京都は衰退に追い打ちをかけられます。

 かつて、天皇の住いである「御所」の周囲は、皇族や公家達の屋敷が建ち並ぶ公家町でした。
 しかし天皇だけではなく、皇族・華族(公家)とともに有力商人たちもが東京に引き移ってしまったため、一帯はすっかり寂れ果ててしまい、さながら「狐狸の棲家」といった様子になったと云う。
 現在の御所と京都御苑は、その四囲が寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通沿いに石築地で囲まれ、都会の喧噪と隔絶した緑の豊かな空間となっています。これは、かつてあった多くの公家屋敷を取り壊してできた跡なのです。

《清水谷邸の椋》
 御所の南西角の近くで公家の清水谷家屋敷の跡です。この椋は幹周り約4mで樹齢300年程とされる。
 幹の左脇遥か後方に「禁門の変」で知られる「蛤御門(新在家御門)」が見えている。

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 幕末の元治元年(1864)7月19日、御所蛤御門付近で尊王攘夷派(長州藩)と公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が起こした「禁門の変」では、御所蛤御門付近と長州藩屋敷(今の京都ホテルオークラ)付近から出火して、21日まで燃え続けた。
 この夥しい被災で京都市街地の大半、約800町・27,517軒の家屋が焼失したが、この大火は「どんどん焼け」とも「鉄砲焼け」とも云われた。
 そして、この大火による被災地の復興は明治維新にまで延引したため、京都にとっては近代化の事業とともに大きな課題になったようです。


 ともあれ、衰微の危機に瀕した京都は、復興と近代化をかけて起死回生の策を講じる必要に迫られます。

 次回と次々回の2回にわたって、どのような復興策を採ったのかを見たいと思います。

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