百鬼夜行と「あはゝの辻」
1. 妖怪スポット「あはゝの辻」
江戸時代後期に成立したとされる、歴史物語『大鏡』から少し引用します。(いきなり何だ!と言われそうですが、固いことは言わないでください。)
「この九條殿は、百鬼夜行にあはせたまへるは。いづれの月といふことは、えうけたまはらず、いみじう夜ふけて、内より出でたまふに、大宮より南ざまへおはしますに、あはゝのつしのほどにて・・・(以下省略)」
そのおおよその意味は、次のような感じになるのでしょうか。
杖を持つ鬼の図
白髭の赤鬼が白髪をなびかせて歩む(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。

平安時代に、百鬼夜行を取り上げた説話集は『大鏡』の他にも、いろいろあるようです。
『今昔物語』では、藤原常行が夜も更けから愛人のもとへ行く途中、二條大路に面した大内裏の美福門の辺りで百鬼夜行に遭遇する。
『江談抄』では、二條大路に面した大内裏の正門である朱雀門の前で、小野篁が藤原高藤に百鬼夜行を見せた。
『康頼宝物集』『古本説話集』などは、『大鏡』から引いているそうです。
そのほか『百鬼夜行圖』など、妖怪や鬼を描いた百鬼夜行絵巻が多数ある。
2. 「あはゝの辻」はどこに
「あはゝの辻」の一帯は深夜になると、たくさんの妖怪など魑魅魍魎が出没群行する異界となったようです。
琵琶と琴の妖怪図
琵琶の化物が琴の化物を引いている(「百鬼夜行絵巻」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。
この「あはゝの辻」は、大内裏(北側)と神泉苑(南側)が向かい合う二條大路と、そのすぐ東の大宮大路が交差する地点だったようです。
したがって、その場所は後年の慶長8年(1603)、徳川家康が造営した二條城の城内に取り込まれてしまったため、今では消滅してしまいありません。
位置的には、二條城の二の丸庭園西端から、本丸御殿へ渡る東橋の東詰めにかけての一帯が、当時の二條大宮にあたります。
「あはゝの辻」(『中古京師内外地図全』から)
この図では、二條大路と大宮大路が交差する地点に「アハノ辻」と記されている。
この図は、応仁の乱以前の様子を復元すべく寛延3年(1950)に作成された。提供は国際日本文化センター。
ところで、『大鏡』は平安時代末期に成立したとされます。その平安時代後期には、歴史的仮名遣いで語中や語尾のハ行音は、ワ行音に発音されるように変化します。ハ行転呼現象といわれるもので、例えば、「かは(川)」は「かわ」に、「おもはず(思はず)」は「おもわず」に転音します。
なので、「あはゝの辻」は「あわゝの辻」と発音します。
妖怪スポットで運悪く魑魅魍魎に遭遇した人は、当然「アワワッ!」と悲鳴をあるでしょう。「アハハッ!」では明るい笑い声になって、異界での禍々しい出来事に相応しくありませんから。(笑)
3. 妖怪のたたりを避ける方法
百鬼夜行に出くわした人は死んでしまうと言われていたため、当時の人々は夜に出歩くことは控えたと云う。
骸骨の図
耳のある骸骨が赤い褌姿で幣帛を持ち踊り歩いている(「百鬼ノ図」から)。画像提供は国際日本文化研究センター。
妖怪や鬼に遭遇しても、着ているものに「尊勝陀羅尼」の経文を縫い付けたり、その経文を一心に誦経することで妖怪達は退散したと云う。
また、百鬼夜行のたたりなど害を避けるための呪文があったそうです。
それは「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と唱えるのだそうです。
『袋草紙』(歌論書)や『口遊(くちずさみ)』(子供向けの教養書)などにも、同様の歌が記されていて、その意味は「難(かた)しはや、行か瀬に庫裏に、貯める酒、手酔い、足酔い、我し来にけり」とされているようです。
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