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2018年10月

2018年10月26日 (金)

形(かたち・フォルム) その3

元・陶化小学校のステンドグラス
 平成24年(2012)、統廃合により東和小学校・山王小学校と統合し、陶化中学校をも併せて施設一体型の小中一貫教育校として新発足している。
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京都市章が入った街灯の笠
 この市章は明治24年(1951)10月に「京」を図案化して制定された。その後に制定された紋章は、この市章の周りに御所車を配したもの。
 明治24年(1891)6月、京都市は左京区粟田口鳥居町1番地に、第1期蹴上発電所を完成して送電開始。
 昭和26年(1951)5月、電気事業再編により関西電力(株)に移管される。
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相国寺の経蔵
 相国寺の正式な名称は萬年山相國承天禅寺で、臨済宗相国寺派の総本山。
 足利幕府三代将軍の足利義満により創建された。
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相国寺法堂の破風
 「破風(はふ)」は、屋根の妻に施された装飾で、寺社建築や城郭建築にみられる。
 破風には、入母屋破風・比翼入母屋破風・切妻破風・千鳥破風・比翼千鳥破風・唐破風などと、多くのデザインがあるようです。
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2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年10月12日 (金)

暖簾いろいろ その26

くろちく大正館
  中京区新町通錦小路上ル
  和雑貨など

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にしむら
  中京区六角通高倉西入
  京料理

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むかで屋
  中京区新町通錦小路上ル
  京料理

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みこう
  中京区新椹木町通夷川上ル
  京料理 

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2018年10月 5日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 27

今回は下京で見かけた路地です


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