突抜 ー元真如堂突抜町ー
元真如堂突抜町は、今出川通から一筋南の通り(石薬師通)で、寺町通と「中筋通」の間を言う。
真如堂前町と真如堂突抜町を東西に通貫していました。
元真如堂突抜町は、この写真の背後(東)の寺町通から、正面に見える京都御苑石垣築地の向こう(西)にあった「中筋通」までを通る道でした。
『京町鑑』は、「◯寺町より西へ中筋通まで ㋵元真如堂突抜町」と記しています。
ところで、「中筋通」というのは、かつては寺町通から西へ三筋目、今の梨木通から二筋西にあった道で、南北に通じていました。したがって、今では京都御苑に取り込まれてしまったため無くなっています。
そして「中筋通」は、北は石薬師通から南は清和院御門(当時は今より西にあって南面していました)のある広小路通まで通じていました。
石薬師御門を入ってすぐの所にある公衆トイレの辺り、そして、いまの京都迎賓館東側を南北に通る道だったようです。
また、『京都坊目誌』には「▲眞如堂突抜町 寺町今出川一筋下る西入町を云う 開通年月詳ならず。或云元祿五年新開すと。此町東は眞如堂前町。西は道路を隔てゝ皇宮地。南は染殿町。北は大原口突抜町に境す 町名起原 眞如堂前町に突入する故なり」として、突抜周辺の位置関係を記しています。
ちなみに、明治2年に実質的な東京遷都がなされ、多くの公家達も東京へ引き移りました。
このため、公家町はすっかり荒廃したことから、明治10年から16年にかけて、公家屋敷の撤去・外周石垣土塁工事・道路工事・樹木植栽など「大内裏保存事業」がおこなわれました。
こうして、現在のような京都御苑の体裁になりましたが、このときに公家屋敷とともに「中筋通」などの道も消滅したのです。
ところで、「中筋通」というのは、かつては寺町通から西へ三筋目、今の梨木通から二筋西にあった道で、南北に通じていました。したがって、今では京都御苑に取り込まれてしまったため無くなっています。
そして「中筋通」は、北は石薬師通から南は清和院御門(当時は今より西にあって南面していました)のある広小路通まで通じていました。
石薬師御門を入ってすぐの所にある公衆トイレの辺り、そして、いまの京都迎賓館東側を南北に通る道だったようです。
また、『京都坊目誌』には「▲眞如堂突抜町 寺町今出川一筋下る西入町を云う 開通年月詳ならず。或云元祿五年新開すと。此町東は眞如堂前町。西は道路を隔てゝ皇宮地。南は染殿町。北は大原口突抜町に境す 町名起原 眞如堂前町に突入する故なり」として、突抜周辺の位置関係を記しています。
ちなみに、明治2年に実質的な東京遷都がなされ、多くの公家達も東京へ引き移りました。
このため、公家町はすっかり荒廃したことから、明治10年から16年にかけて、公家屋敷の撤去・外周石垣土塁工事・道路工事・樹木植栽など「大内裏保存事業」がおこなわれました。
こうして、現在のような京都御苑の体裁になりましたが、このときに公家屋敷とともに「中筋通」などの道も消滅したのです。
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