2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 謹賀新年 | トップページ | 看板いろいろ その26 »

2019年1月11日 (金)

突抜 ー稲荷町突抜ー

_01
 「いなり町突抜」は、間之町通の高辻と松原間を云う。
 稲荷町と本燈籠町を南北に通貫しています。

「本燈籠町」の仁丹町名表示板
  
本燈籠町の町名由来については、『京都坊目誌』に「東洞院松原上る燈籠町より本町北側に亘り。之を燈籠堂浄教寺の舊地とす。故に稱す。」とあります。

_01_2
 「稲荷町」について『京都市の地名』には、「寛永14年洛中絵図に“いなり町つきぬけ”と記しており寛文後期洛中洛外之絵図に“いなり町”とある。しかし寛文12年(1672)洛中洛外大図には“稲荷町突抜町”とみえ、江戸中期までは両者を併用していたらしい。宝永2年(1705)洛中洛外絵図以後の絵図は、“稲荷町”となるから、17世紀の半ばには現町名に固定したと推察できる。」としています。

 ちなみに、寛文5年(1665)刊の『京雀』には「たかつじさがる  ◯つゞらや町」とあります。

 稲荷町あるいは稲荷町突抜の名称由来は、江戸初期の俳人・歌人・歌学者である松永貞徳が、自身の宅地に勧請した稲荷社(花咲稲荷社)が当町にあることによる。
 なお、稲荷社が花咲稲荷と称されるのは貞徳が花咲亭逍遥軒と号したことによる。

花咲稲荷社

_01_3
松永貞徳の花咲亭址

_01_4

« 謹賀新年 | トップページ | 看板いろいろ その26 »

仁丹町名表示板」カテゴリの記事

町名・地名の由来」カテゴリの記事

辻子(図子)・突抜」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 謹賀新年 | トップページ | 看板いろいろ その26 »