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2019年5月

2019年5月31日 (金)

形(かたち・フォルム) その4

京大西部講堂瓦屋根に描かれた星

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透かし彫りの看板
(喜多古美術店)


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東華菜館エントランス

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濱長本店(心太)の煙り抜き?と煙突

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亀型の飛び石(鴨川荒神橋そば)

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2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



2019年5月 3日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その4

山 端

 高野川の東側にあって高野の北東隣り、上高野の南西隣りに位置する。
 八瀬・大原などの喉元にあたり、昔から若狭街道の要衝の一つでしたが、昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

「山端森本町」「山端川岸町」の仁丹町名表示板

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 『山城名跡巡行志』には、山端について「(略)高野河ノ東ノ端ヲ北ヘ上リ 新田山端 茶店多シ ヲ經テ此所ニ來」とあります。
 また、「山端 村名 松崎ノ東 高野河ノ東ニ在 松崎村出戸 大原街道也 茶店數家」と記しています。

 上記の引用文にあるように、山端は高野川挟んで東側にあるのですが、元は松ヶ崎の出戸(飛地)だったようです。
 そして山端には、大原街道(若狭街道)を往来する旅人のための茶店が多かったようです。

山 端(『拾遺都名所圖会』から)
 絵図右上の説明書きは、「山端  光武帝は麦飯を以て飢を凌ぎ、後漢の社稷を剏め給ひけり。ここも麦飯を名物とす。是もかの目出度ためしによる物ならんか。」とあります。
 (図にカーソルを置いてクリックすると画像が拡大できます)

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平八茶屋
 麦飯とろろ膳が名物です

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 そうしたかつての茶店の一つで現存するのが、天正年間の創業という平八茶屋なのでしょう。
 また、廃業してしまったのですが、鯰料理で知られた十一屋も江戸時代寛永年間の創業ということで、そうした茶店の一軒だったようです。

 「山端」の名称由来は、松ヶ崎の東山が東に向けて高野川に突き出た所、山の端に位置するところから来ているようで、「山鼻」「山嘴」とも記したようです。
 『山州名跡志』には次のようにあります。「山端 松崎ノ東北ニ在リ 民家有リ 此所松崎山ノ東ノ崎ナリ」




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