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2019年6月

2019年6月28日 (金)

祇園祭

祇園祭神輿渡御と御旅所

 夏の京都の風物詩である祇園祭は八坂神社の祭で、その規模や歴史と云った点では我が国最大の祭です。
 八坂神社は、祇園社あるいは祇園感神院と呼ばれ、祭神は牛頭天王でした。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により改名されたのです。その後、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合して祀られるようになり、いわば一心同体とされる。
 現在の祭神は、主祭神が素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八王子の10座、これに配神三座と合わせて13座です。

寺町御旅所

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  祇園祭の祭事では、八坂神社を出た神輿3基は氏子町内を巡行して、四条寺町南側(御旅宮本町)の御旅所へ行き、そして八坂神社へ戻るまでの一週間は御旅所に安置されます。
 神輿渡御で御旅所に渡る7月17日を神幸祭、八坂神社に戻る7月24日を還幸祭と云います。

長刀鉾

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函谷鉾

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 神輿渡御に先だって前触れあるいは露払いとして、山鉾の巡行が行なわれ前祭・後祭と言われています。ちなみに、前祭は四条通から南の祭であることから「下(しも)の祭」、後祭は四条以北であることから「上(かみ)の祭」と呼ばれます。
 祇園祭は前祭の山鉾巡行が祭のハイライトとして人出も多く有名ですが、神事としては7月1日から31日の間ずっと続くのです。

 ところで、渡御した神輿は祇園御旅所に入られるのですが、『京町鑑』『都名所圖会』の記述を見ると、昔は四条通の北側にも御旅所があったようです。三基の神輿は、北側の社に牛頭天王(素戔嗚尊)と八王子の2座を祀り、南側の社には少将井を祀っていたということです。
 また、それよりもさらに以前には、素戔嗚尊と八王子の2座は、烏丸通五条坊門の南(今の烏丸通仏光寺下ル大政所町)の大政所と号する御旅所に祀られていました。

大政所御旅所跡

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 そして、少将井の1座は、烏丸通二条の北(今の少将井御旅町)の御旅所に祀られていたということです。

少将井御旅所跡の説明板
 京都新聞社社屋の北端壁面に設置されています。
 (写真をクリックして拡大すると幾分は読みやすくなります)

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 このように2ヶ所に分かれていた御旅所を1ヶ所に統合したのは、太閤豊臣秀吉であり天正19年(1592)のことだったそうです。

【註1】素戔嗚尊
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の子で日本神話に登場する
 天津神。牛頭天王は釈迦が説法をおこなった祇園精舎の守護神。
 神仏習合により両者は同体だとされる。
【註2】八王子
 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で素戔嗚尊の八人の王子
【註3】少将井
 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で素戔嗚尊の妻


祇園祭の起源と怨霊の祟り

 平安時代の京都は、人が亡くなると死骸は野ざらしにされる風葬で、主な葬送地は鳥辺野(東部)・化野(西部)・蓮台野(北部)の3ヶ所がありました。
 しかし、貧しい庶民や行き倒れて死んだ人の死骸は、葬送の地に移されることなく路傍に打ち捨てられたまま、あるいは鴨川に流されることも珍しくはなかったようです。
 当時は下水道はありませんでしたから、側溝には雨水と共に生活汚水なども流されます。そして、道路は人・動物の死骸やゴミの捨て場であり、屎尿の排泄場所ともなり、現代とは違って衛生環境は劣悪でした。
 そして、当時の飲料用水は井戸水に頼っていたため、汚水・汚物で地下水は汚染の危険にさらされています。
 このような環境のもとでは、豪雨による洪水で河川が溢水して汚物が広がり散ってしまうと、疫病が発生した時にはたちまち感染が拡大流行してしまいます。

八坂神社(祇園社)

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 平安の昔、疫病の流行や天災は、政争に敗れて非業の死をとげた人の怨霊が祟りをなすものと考えられていました。そして、怨霊の祟りを鎮め宥めて災厄を避けるために御霊会が行なわれました。
 貞観5年(863)疫病が流行したとき、平安京大内裏の南東、二條大路を挟んで南側の神泉苑で朝廷が催したのが御霊会の始まりとされる。
 そして、貞観11年(869)祇園社で執り行った御霊会は、祇園御霊会また祇園会といわれましたが、これが祇園祭の起源とされています。
 祇園御霊会の祭事で、神輿渡御に先立つ山鉾の巡行をともなうようになったのは、いつ頃のことなのか定かではないようです。













2019年6月21日 (金)

饅頭屋町(まんじゅうやちょう)

 烏丸通の三条と六角の間に饅頭屋町という町があります。
 『京雀』には、「◯まんぢうやの町 此町の饅頭屋は日本第一番饅頭の初なるよし家名の書付にあり」とあって、饅頭屋発祥の地だとしています。

饅頭屋町の町並み

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 『京都坊目誌』でも、この饅頭屋町の町名起源について、次のように説明しています。
 「天正以前阿彌陀堂前ノ町と云ふ。頂法寺の阿彌陀堂西門のありし所とす。當時鹽瀬九郎右衛門と云ふ者此町に棲して。饅頭舗を開きしより稱となる」

頂法寺の山門

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 ここ饅頭屋町は、天正以前には頂法寺(通称・六角堂)阿弥陀堂の西門があった所で、天正期以前の町名は阿弥陀堂前ノ町と云ったが、この町に住む塩瀬九郎右衛門という人が饅頭屋を始めたことから饅頭屋町と云う町名になったと言うのです。

頂法寺の本堂
 頂法寺の正式名称は紫雲山頂法寺、通称の「六角堂」は本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうづくり)であることによる。

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 ところで、この塩瀬家について伝わっているところを記します。

 建仁寺の僧である龍山徳見禅師が、嘉元元年(1305)元に留学、元には45年のあいだ留まり修行、貞和5年(1349)に帰国したと云います。そして後に建仁寺35世・南禅寺24世・天龍寺6世の住職に就任、その曾孫が建仁寺塔頭の多くの文化財両足院を創建しています。
 龍山徳見が帰朝したときに随行して来日したのが、林浄因(りんじょういん)という人でした。
 この林浄因が日本(京都)に帰化して塩瀬を名乗り饅頭の製法を伝えたといい、塩瀬総本家の始祖にあたるそうです。

 浄因の子孫から禅僧や商人を輩出して饅頭屋も継承されますが、その後、京都の林家と奈良の林家に別れたようです。
 京都の林家は姓を「塩瀬」と改め、烏丸通三条下ルで塩瀬饅頭を販いだといわれる。このとき、室町幕府八代将軍の足利義政から授かった「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を掲げて営業したと云う。

 しかし、応仁の乱で荒廃した京都を逃れた林家は奈良へ移住します。
 奈良で饅頭を製造し、奈良饅頭として販売したのは林宗二という人でした。
 ちなみに、この林宗二という人は文学や歌学に精通していて、室町時代に刊行された『節用集』(国語辞書)を改訂しましたが、これは「饅頭屋本節用集」とも呼ばれるそうです。

2019年6月14日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 30

下京区の4件です

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2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

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