2019年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

リンク集

無料ブログはココログ

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月27日 (金)

八 坂

 京都盆地東部の東山連峰、その北端にある比叡山(848m)から南端の稲荷山(233m)まで、約12Kmにわたって連なる峰々は「東山三十六峰」と称されてきた。
 この東山連峰は概ね北高南低となっていて、ほぼ中央にある清水山(242m)から南には、南端の稲荷山を除いて200mを越える峰は見られない。

東山連峰稜線の一部(阿弥陀が峰から稲荷山にかけて)

Dscn1425

 なだらかな起伏を見せる稜線は、服部嵐雪が「蒲団着て寝たるすがたやひがし山」と詠んだように、その優美な眺めは京都の景観美をなす要素の一つです。
[註:服部嵐雪は江戸時代前期の俳人で松尾芭蕉に俳句を学び、宝井其角・向井去来・森川許六などとともに蕉門十哲の一人とされる。]
 
 「八坂」は、古には京都盆地の東北部にあたる山城国愛宕郡(おたぎぐん)を構成した13郷の一つ八坂郷(也佐賀)で、平安京造都以前からあった地名と見られる。
 ちなみに13郷とは、蓼倉・栗野(栗栖野)・粟田(上・下)・大野・小野・錦織・八坂・鳥戸・愛宕・賀茂・出雲の各郷を言う。

八坂神社
 祇園社・祇園感神院などと呼ばれていたが、明治になって神仏分離に伴い現社名となった。

Photo_20190920090101

 古代のこの一帯には高句麗系の渡来氏族とみられる八坂氏が居住したが、氏族名は地名を名乗ったもののようで、奈良時代の正倉院文書『山背國愛宕郡計帳』に「八坂馬養造」、平安時代初期の『新撰姓氏録』には「八坂造」と、その名が見られると云う。

 「八坂」の地名由来は、東山三十六峰が西方に向かって緩やかに傾斜する、坂の多い地形であることに因むようです。
 「ヤは数多いことをいう接頭語、サカは傾斜地である」(『地名が語る京都の歴史』)として、「ヤ」は数や量の「八」ではなく、「多い」「おびただしい」と云った意味であり、多くの坂のある土地を意味したとする説がある。
 また、「八坂はヤ+サカ(坂)で、ヤは弥栄(いやさか)などという場合のヤにあたり、坂にかかるいわばほめ言葉で、坂が立派なのでただ坂といわないで、ヤサカと称したものであろう。」(『京都の地名検証』)とする説もみられる。

 ところで、《八坂》地域の範囲は、参照した地誌によってその表現には違いがあるものの、いずれの書も同一の地域を指しています。
『山州名跡志』は、「其ノ方領凡ソ祇園ヨリ三年坂ニ至ル歟」
『山城名跡巡行志』は、「清水ヨリ祇園ノ邊二至ル郷名也 今法觀寺境内ヲ八坂町ト云フ」
『都名所圖会』は、「北は眞葛原南は清水坂までの惣名なり」
『京都坊目誌』は、「祇園以南清水坂以北の汎稱なり本町元法觀寺の境内なり。」

長楽寺坂

Photo_20190920091001
法観寺坂から見る五重塔

Photo_20190920091201
三年坂(産寧坂とも)

Photo_20190920091501

 そして、《八坂》名称の由来については、上記の地誌のうち『京都坊目誌』を除いては、挙げている坂の名称は一致しています。それは、祇園坂・長楽寺坂・下河原坂・法観寺坂・霊山坂・三年坂・山井坂・清水坂の八つの坂としています。
 しかし、目を引くのは『京都坊目誌』で、「後世此地に八坂 所謂祇園坂。長樂寺坂。法觀寺坂。靈山坂。産寧坂。清水坂。山井坂。下河原坂。是ナリ あるを以て地名と爲れりと傳ふるは淺薄の甚だしきものなり。」と書いているのです。つまり、祇園坂など八つの坂のあることが八坂の地名由来だなどと言うのは、浅く薄っぺらな知識・考えであって従えないとしているのです。











2019年9月20日 (金)

暖簾いろいろ その31

一保堂
  中京区寺町通二条上ル
  日本茶専門店
  享保2年(1717)創業

Photo_20190711163701


和バル OKU
  東山区祇園町南側
  和風バル

Oku


鈴 Rinn 祇園
  東山区毘沙門町44−24
  宿泊施設

Rinn


祇園  みずおか
  東山区祇園町南側
  京料理

Photo_20190711165001

2019年9月13日 (金)

京都の「上ル・下ル・東入・西入」

 京都のいわゆる旧市街地では、特定の場所の位置を表現するとき、あるいは進む方向を示すときには、南北道路(縱の通り)と東西道路(横の通り)の交差する地点を基準として表現します。
 北ヘ行く(移動する)のを「上ル(あがる)」、南に行くのを「下ル(さがる)」と表現します。また、東西への移動は「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と表現します。
 そして、これに町名・番地を付け加えることが、形式として慣習・慣例として定着しています。

仁丹町名表示板

Photo_20190809101501
Photo_20190809101601
 ここで気を付けたいのは、「東入」「西入」の場合には慣習として送り仮名の「ル」は省略して付けません。
 しかし、「上ル」「下ル」の場合は「上(かみ)」「下(しも)」との混同を避ける必要があり、送り仮名「ル」を入れます。ただし、「ル」であり「ガル」とはしません。

Photo_20190809101801
 ちなみに、江戸時代前期の儒学者(朱子学)である貝原益軒は、『京城勝覧』[宝永3年(1706)刊]で次のように、極めて簡潔に言い表しています。
 「京都の町南北を縱とし。東西を横とす。縦町なれば北にゆくをあがるといふ。南にゆくをさがるといふ。横町なれば。何の町を東へ入。西へ入と云。すべて此四言をもつて町を尋れば。まぎれなく尋やすし。」と、大変判りやすく表現しています。
 このような慣例がスタンダードとなったのはいつの頃なのか、確かなことは判っていません。
 しかし、近世に著された地誌類を見ると、すでに江戸時代初期の寛文期のものにはそのような表現を見ることができます。(例:寛文5年刊『京雀』など)

 ところで、「東入」と「西入」については特に説明がなくても判ります。しかし、北へ行くのを「上ル」、南に向かうのを「下ル」と表現するのは何故なのでしょうか。
 そうなった理由(らしいもの)として、二つばかり思い浮かびます。
 一つには、古代中国では「天子南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治をおこない、宮殿も南に向けて造営される習わしが影響しているようなのです。
 こうしたことから、お上(天皇)のおわす北は上(かみ)に上ル(あがる)、それに対して南は下(しも)へ下ル(さがる)と観念されることになったのでしょうか。
 もう一つは、京都盆地の地形は北から南西に向かって傾斜しており、鴨川や桂川などの主要河川は概ね北から南へと流れています。そのため、北が上流・上(かみ)・上手(かみて)で、南は下流・下(しも)・下手(しもて)と認識されることも影響しているのではないかと思われます。

 さて、『京町鑑』などの地誌書でも、南北の通りでは「上ル」と「下ル」、東西の通りでほ「東入」と「西入」という表現が普通に広く使われています。
 それでは、その使い方には法則性や基準といったものがあるのでしょうか。

 広がりのある地所、例えば町(ちょう)や広い境内地を持つ寺社などの所在位置を示す場合であれば、大雑把でおよその表現であっても、特に差し支えはありません。
 ところが、特定の狭い地点を表示する場合には、もっと的確でピンポイント的な表現をしなければ、正確さに欠けて用を足すのには不十分です。

 例えば、ある目標地が東西に通っている2つの通りの間にある場合、北側の通りに近いのか、それとも南側の通りに近いのか。その目的地が距離的には南側の通りに近いときには「下ル」ではなく、「上ル」と表記したほうが正確ということになります。

 これを具体的に例を挙げて説明しましょう。

京都市学校歴史博物館

Photo_20190809102701
Photo_20190809102801
 写真の、京都市学校歴史博物館(元・開智小学校跡)の所在地は、京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437番地です。
 この表記の意味するところは、京都市学校歴史博物館は御幸町通の「仏光寺を下がったところ」にあるのであって、御幸町通の「高辻を上がったところ」ではないのです。判りやすくいえば、京都市学校歴史博物館は高辻通よりも、仏光寺通のほうに近いところに所在することを示しているのです。
 註:ちなみに、橘町は「たちばなチョウ」と読み、「たちばなマチ」ではありません。旧市内に限って言えば、町名の場合は「◯◯チョウ」であって、「◯◯マチ」と読むのは極めてまれです。

 そういう点では、江戸前期の地誌『京羽二重』や『京羽二重織留』などでも、例えば、目的の商家や諸職がその通りのどこに位置しているのか、北側の町筋に近ければ「下ル」と記し、南側の町筋に近い場合には「上ル」というように、現実に即して的確に位置を記述・説明しています。
 これは、東西の通り沿いにある目的地の場合においても同様となります。

 以上、京都に独特な方角・方向の表現について考えてみました。













2019年9月 6日 (金)

悪王子と悪王子社

エーっ! 悪王子?
 八坂神社の境内、本殿の東側に悪王子社(摂社)があります。

 悪王子社
Photo_20190719154801
 「悪王子」という名前からは、何となく荒々しく粗暴で不吉な神といったイメージを持ちます。
 実はこの悪王子社、祀られているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂(あらみたま)なのです。
 神の霊魂には、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の二つの働きがあるとされていて、荒御魂は荒々しく活動的な作用をすると考えられました。
 古事記や日本書紀によると、素戔嗚尊は出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したことから、「悪王子」の称号を贈られた尊敬される神様だったのです。

 ところで、この悪王子社は、最初に鎮座した地から八坂神社に遷座するまでには、以下のように幾度かの遷座を繰り返しています。


元悪王子町
 悪王子社ははじめ、素戔嗚尊の御魂を祀る八坂神社の摂社として、東洞院通四條下ル(現・元悪王子町)に建立されました。鎮座の年月については詳らかではありません。

 悪王子社小祀
Photo_20190719155401

 『京町鑑』には、「東洞院通」の項に「◯四条下ル  ▲元惡王子町 天正年中まで此町に惡王子社ありしを慶長年中に太閤秀吉公今の寺町四條祇園御旅所に移し給ひし也」と記しています。 
 しかし実際には、四條祇園御旅所に遷る前に、烏丸通五条上ル(現・悪王子町)の地に遷座しています。
 そのため、この東洞院通四條下ルの元鎮座地は「元悪王子町」と呼ばれることとなります。

 元悪王子町の仁丹町名表示板

Photo_20190906092001
 なお、平成10年(1998)この元悪王子町に小祀を設けて分霊が祀られましたが、駒札には悪王子社は「天延2年(974)建立」としています。
 また、この小祀の少し北方の西側には「悪王寺社之址」の石碑が建ち、鎮座の地であったことを示しています。


 悪王子社之址碑
Photo_20190719155601

悪王子町
 次に悪王子社は、天正18年(1590)太閤秀吉の命により、東洞院通四條下ル(元悪王子町)から烏丸通五条上ル(悪王子町)に遷座します。町名は旧称を踏襲しました。
 『京町鑑』には、「烏丸通」の項で「◯萬壽寺下ル  ▲惡王子町 此町いにしへ惡王子社ありし舊地也」と記しています。
 ちなみに、『京都坊目誌』は、この悪王子町について「此地は稲荷神社の氏子なるも、本町のみ八坂神社の神事に加はる、今猶然り、蓋し古例に據るなり。」と記しています。
 つまり、松原通が祇園祭と稲荷祭の境界だったのですが、悪王子社が所在したことから祇園祭の前祭で神輿臨幸の際には、この悪王子町から神供を備える神事に参加していたという。
 かつて昭和30年(1955)までは、祇園祭前祭(下祭)の山鉾は松原通も巡行していました。


祇園御旅所

Photo_20190719160001

 次いで、慶長元年(1596)に四条寺町の祇園御旅所へ遷座します。
 『京都坊目誌』に、「御旅宮本町にあり。今詳ならす。慶長の初め豊臣氏の命に依り。四条旅所内に移る。」とあります。
 『京町鑑』「◯寺町東入 ▲御旅町」の記述によれば、当時の祇園御旅所は四条通を挟んで北側と南側の両方にあったようです。
 そして、『都名所圖会』には、「惡王子社 御旅所北側にあり 祇園會神輿臨幸の時 烏丸通五條の北 惡王子町より古例によって神供を備ふ」としています。


祇園町南側の大和大路東南角
 次に遷座したのは、『京都坊目誌』によると「其後 祇園町大和大路東南角に遷る 年月詳らかならす天明火災後乎」としています。
 いま、お茶屋「一力」のある場所です。一力は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にも登場して、祇園でもっとも格式高く由緒あるお茶屋だということです。

八坂神社
 そして最後に、明治10年(1877)、現在のように第二摂社として八坂神社境内に遷座します。(八坂神社本殿の東側にあり西面する)
 『京都坊目誌』には、「明治十年四月。京都府令して。八坂神社境内に遷座し。第二攝社とす。」と記しています。













« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »