消えた巨椋池
以前、といっても戦前のことなのですが巨椋池(おぐらいけ)という池が存在しました。
東西4km、南北3km、周囲が16km、面積は8㎢(800ha)もある広大な池でした。現在の京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町の3市町にかけて広がっていたのですが、当時としては京都府下の淡水湖では最大の面積をもつ池でした。
往時の巨椋池
淡交社『写真集成・京都百年パノラマ館』所載
巨椋池一帯は宇治・木津・桂の三川が合流する低湿地であることから、沿岸は水禍の絶えない土地だった。そのため、水運・漁獲といった利益が損なわれることも多かった。
昭和6年(1931)の満州事変以降、中国での侵略戦争を拡大していった日本は、昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入します。
そうした折、食料不足から米増産のため、昭和8年(1933)に国営事業として巨椋池の干拓工事に着工します。そして、昭和16年に完工を見て約635haの水田地帯に変貌したのです。
巨椋池干拓之碑
昭和17年11月の建立で、篆額は農林大臣井野碩哉。
巨椋池が干拓農地となるに至った経緯が記されている。
今や干拓で姿を消した巨椋池は、古歌と地名にその名残りをとどめるだけです。
『万葉集』に(原文)「巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井爾 雁渡良之」という柿本人麻呂の歌があります。
訓読すると、「巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし」となります。
註:「とよむ」=響き渡る、「射目人」=伏見の枕詞、「田井」=田んぼ、「らし」=違いない。
巨椋神社
巨椋の語源は、古代の有力氏族であった巨椋連に因む、あるいは巨椋連の祖神を祀る巨椋神社に由来するなどといった説があります。
しかし、一方では巨椋池一帯は、京都盆地では最も低湿な土地で、宇治川・木津川・桂川が流れ込む遊水池の役割を果たす湖沼であり、池の西端近くから淀川に流出していました。このような大きく刳られて、周囲よりも低い地形であることから来ていると見る向きもあるようです。
淀 大橋 孫橋
挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から
「淀 京師より南の方三里にあり。顕住密勘に云く、淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとゞこほり、ぬるくとまれるなり。それをば淀といふ、河淀ともよめり。此淀川といふも、桂川、鴨川、宇治川、木津川等のをちあひて深ければ、よどみぬるくながるゝなり。云々」とあり、三川が寄り集まり川の水が澱んで滞留したことが、淀の地名由来だとしています。
註:「顕住密勘」というのは、藤原定家等撰集になる『古今和歌集』の注釈書
かつての巨椋池一帯の地名で、槙島・向島・上島・下島など「島」のつく地名は、巨椋池に流れ込む3川の運んだ土砂が作り出した島々の名残りなのです。
ところで、ここまで「巨椋池」という呼称で説明してきましたが、この名称は明治以降になってからのものであって、江戸時代までは「大池」と呼ばれていたようです。
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は伏見城を築城するにあたって、大土木工事を実施します。
それまでの宇治川は、宇治橋の少し下流にある彼方(現・乙方)で、大池に直接流れ落ちていましたが、大池と宇治川を分離する槙島堤を築いて、宇治川を大きく北ヘ迂回させて指月城(伏見城)の築かれた「指月の丘」の南側まで北上する新流路に付け替えました。
註:謂わゆる伏見城というのは大きく分けて4つ(4期)ありました。1期は秀吉が聚楽第から引き移った隠居屋敷、2期が隠居屋敷を本格的な城郭として修築した「指月城」、3期は慶長の大地震で指月城が崩壊したためそこから東北の木幡山に新たに再建した木幡山城、4期が関ヶ原の戦いの前哨戦としての伏見城の戦いで焼失した木幡山城を徳川家康が再建した城。
このとき、大池に槙島堤・小椋堤・大池堤・中内池堤など、太閤堤と総称される大規模な堤防が築かれたことで、大池・中内池・大内池・二の丸池の四つに区切られました。
指 月
挿絵と文は『拾遺都名所圖絵』から
「江戸町より西の地名なり。此所伏見の勝地にして、前には宇治川の流れを帯て舟のゆきゝあり、西南は巨椋池の江渺々として方一里の水面なり、月を愛するには無双の景色にて、いにしへより高貴の楼閣をいとなみ、清質の悠々たるを升、澄暉の藹々たるを降すの地なり。」と記されていて、名だたる景勝の地であったようです。
そして、現在の伏見区桃山町泰長老を中心とする「指月の丘」の麓と向島の間を流れる宇治川に、豊後橋を架けます。
それまで京都と奈良を結ぶ大和街道は、宇治川の東側を木幡・宇治の彼方(乙方)・宇治橋を経ていたものを、宇治川の付け替えで伏見城下・豊後橋・向島から巨椋池池中の小椋堤を経て小倉・伊勢田・広野という経路に変えました。
また、大池の西方では大池北岸に淀堤を築いて、宇治川を向島の西から淀川につないで、伏見と大坂の間に水運を開きました。
以下は関連記事の予告です。
往時の巨椋池の西南の端、淀の近くに「一口」と書いて「いもあらい」と読む集落があります。これは難読地名の最たるものでしょう。
近いうちに、この「一口」の地名由来を記事にしてみたいと考えています。
« 看板いろいろ その30 | トップページ | 暖簾いろいろ その32 »
「町名・地名の由来」カテゴリの記事
- 白川(白河)⇒ 岡崎(2023.03.24)
- 七福神信仰と町名(2022.08.19)
- 行願寺(革堂)(2022.07.08)
- 鴻臚館のこと(2022.02.18)
- 岬神社 ーこの名は鴨河原だった名残りー(2021.12.18)
「道標・史跡などの石碑」カテゴリの記事
- 大変珍しい灯籠(2023.02.10)
- 善導寺の三尊石仏(2023.01.27)
- 誓願寺の六地蔵石幢(2022.12.30)
- 人体解剖の先駆者 山脇東洋(2022.09.02)
- 道切り(ミチキリ)(2022.08.05)
「京都の移り変わり」カテゴリの記事
- 白川(白河)⇒ 岡崎(2023.03.24)
- 京都の顔 ー鴨川の移り変わりー(2023.02.24)
- 鴨川運河を稲荷から藤森まで歩く(2022.03.18)
- 鴨川運河(琵琶湖疏水)(2021.11.12)
- 京の市場事情 2 ー近 世ー(2021.08.20)
コメント