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2019年12月

2019年12月27日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(3)

3. 「東山通」成立当時の地域の様子

 前回は、東山通(現・東大路通)がどのような順に整備拡張・新設されて、軌道の敷設と市電が開通したのかを見ました。
 今回は、それぞれの地域がその当時はどのような状態だったのかを、整備されていった順を追って見ていきます。

1) 三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)

① 三条通〜菊屋橋(白川)
 三条通の北にある孫橋通から南の古門前通までは、もともと取り立てて云う程の道はありませんでした。ここに町地を南北に貫通して道路を新設しました。
② 菊屋橋〜八坂神社石段下

《菊屋橋から見た白川》

Photo_20191205163801
 この白川に架かる菊屋橋から南は「こっぽり通」と称した幅員4m余りの細い道でしたが、これを拡幅しました。
 東山通の成立により、「こっぽり通」の呼称は自然消滅する。
③ 八坂神社石段下〜松原通
 祇園石段下から、南の安井門跡(現・安井金毘羅宮の辺り)を経て松原通まで通じていた、「くちなは(蛇)の辻子」と称する細い道を拡幅。
 東山通が成立したことで、「八軒(俗称・藪ノ下)」の呼称は自然消滅する。
④ 松原通〜広道馬町(渋谷通)

《梅林町の傾斜地》

Photo_20191205164401
 小島町・梅林町の一帯は東から西へ傾斜した地形で、明和年間の頃までは概ね菜園や葬送地でした。ここに盛り土をして、幅員5m程の道を通し「広道通」と称していました。これを拡幅して、僅か十余年前までは幽寂の地であったのが、交通上枢要の地域に変貌したと云う。
  
2) 三条東四丁(三条通)〜熊野神社前(丸太町通)

① 三条東四丁(三条通)〜冷泉通
 法皇寺北門前町一帯は道路を拡幅して、一筋西側の「西寺町通」に対応して「東寺町通」と称することとなる。
  法皇寺東門前町・寺南門前町も拡幅して、仁王門通から南は孫橋通で行き止まりとなっていたのを、南北に貫通する道路とした。
② 冷泉通〜竹屋町通

《琵琶湖疎水に架かる徳成橋》

Photo_20191205163802
 岡崎町字徳成地(現・岡崎徳成町)の畑地を南北に道を新設し、琵琶湖疎水に徳成橋を架橋する。
③ 竹屋町通〜熊野神社前(丸太町通)
 聖護院字山王(現・聖護院山王町)の田畑を南北に道路を新設した。

3) 広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)

 渋谷通から南については広道通を拡張するとともに、妙法院前側町の大部分を占める妙法院から収公した境内の道を利用して道路を開いた。

 以上の区間については大正初期に開通していたが、以下の区間はずっと遅れて、昭和も3年に入ってからの開通でした。

4) 熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
5) 妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)

 そして、最後に開通した次の区間は東山通ができてから約30年後、戦時中の昭和18年7月10日のことでした。
6) 百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

  (以上の記事は主に『京都坊目誌』を参照しました) 



2019年12月20日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(2)

2. 東山通と市電「東山線」の開通

 道路の整備(拡張と新設)とともに、電気軌道の敷設と路線開通が進められました。
 まず最初は大正元年(1912)12月25日に、現・東大路通三条から五条通の南の馬町との間に市営電車を開通させて、その路線名を「東山線」としました。
 そして、翌大正2年3月にこの通り名を「東山通」と命名しました。

 ところで「東山通」は、かつては「東山線通」と呼称したことがありました。これは、市電の路線名称「東山線」を道路名称としても使用したのです。

《南門前町の仁丹》

Photo_20191202164201
 なお、旧称「東山(通)」は現在でも使用されており、「東山三条」「東山安井」など市バス停留所名や交差点表示に使われています。
《東山安井の標識》

Photo_20191202164301

 その東山通(現・東大路通)は、次のような順で道路を拡幅あるいは新設して軌道の敷設が進められ、市電東山線が開通していきました。    
1) 大正元年12月25日  
    三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)
2) 大正2年3月15日   
    三条東四丁(三条通)〜冷泉通
3) 大正2年4月5日   
    広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)
4)  同  4月16日   
    熊野神社前(丸太町通)〜竹屋町通
5)  同  5月6日   
    冷泉通〜竹屋町通
6) 昭和3年1月13日   
    熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
7) 昭和3年11月8日   
    妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)
8) 昭和18年7月10日  
    百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

 ここで、京都における電気軌道開通の揺籃期を見ておきましょう。
《京都電気鉄道伏見線石碑》
 七條停車場前に(現・京都駅)

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《伏見線終点(伏見油掛町)》

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 まず、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の年、2月1日に日本で最初の路面電車として、京都電気鉄道(略称「京電」)の伏見線が、七條停車場(東洞院塩小路)と伏見下油掛の間で営業運転を開始。4月には岡崎の第4回内国勧業博覧会々場に至る木屋町線が開通しています。
 そして、京電は順次に、営業路線を増やしていきます。
 その後、明治45年(1912)6月11日、京都市電気軌道事務所が発足して京都市営の路線が開設され、京電と京都市電が競合する時代となりますが、大正7年(1918)京都市が京電を買収し、市電の営業路線として一本化されました。

 なお、市電の路線全体としては、東は東大路通(東山通)・西は西大路通・南は九条通・北は北大路通を外周として、その内側に碁盤の目状に路線を開通させました。
 昭和33年には京都市電の営業路線は總距離が76.83Kmとなり、市民や観光客の足として最盛時の昭和38年度には乗客数が1日平均546,488人に達しました。
 しかし、全路線の乗客数は、昭和36年の2億2千万人をピークに減少の一途を辿り、昭和52年にはついに2千万人にまで落ち込みました。
 そして、自動車の普及とともに乗客数の減少で市電経営は悪化して、路線は順次に廃止へと追い込まれ、バス路線への転換が進みました。
 最後は、明治28年2月1日の京都電気鉄道による日本初の路線営業開始から85年間を経て、ついに昭和53年(1978)9月30日には京都市電の全路線が廃止となりました。

   【続く】



2019年12月13日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(1)

このシリーズは、次のような内容で3回にわたって書いてみます。
 内容:1. 東山通ができた頃の京都
    2. 東山通と市電「東山線」の開通
    3. 「東山通」成立当時の沿道の様子

蒲団着て寝たるすがたやひがし山  嵐雪  
 緩やかな起伏を見せる東山連山(東山三十六峰)を、蕉門の高弟であった服部嵐雪はこのように詠んでいます。
 『都名所圖会』は東山三十六峰を、「此橋上の半より東に向へば、洛東の勝地木の間〳〵に顕れて平安の佳景こゝに止る。」と褒め立てています。(ここに言う「此橋」とは五条橋のこと)
 この東山連山の西麓を南北に通っているのが、現・東大路通=旧称・東山通です。京都市街地を南北に通るメインストリートの一つで、生活上だけではなく、「東山三十六峰」が西に向かって緩やかに傾斜する一帯には多くの名刹・古社や名所などの観光地、また岡崎地区には多くの文化施設の建造物や庭園などが多数散在する重要な道路なのです。

1. 東山通ができた頃の京都

 京都の地位は江戸期の半ば頃から低下していたのですが、明治維新で首都が実質的には東京へ遷るとさらに衰退していきます。
 このような状況にあった京都は復興と近代化のため、インフラ整備とともに産業振興が喫緊の課題となりました。
 こうして、京都市は明治41〜45年(1908〜1912)に、「三大事業」と称して大規模にして近代的な都市基盤整備事業を実施します。
 三大事業とは、① 第二琵琶湖疎水の建設、② 疎水を利用した上水道の整備、③ 道路拡築と電気軌道敷設、の3つを言います。

 今回の記事では、今でこそ繁華な「東山通(現・東大路通)」ですが、上記三大事業の「③ 道路拡築と電気軌道敷設」との関わりで、成立当時の沿道の様子を見てみようと思います。

 『京都坊目誌』は、大正初期当時における「東山通(現東大路通)」の様子を次のように記しています。
 「東山通 北は聖護院町東丸太町に起り。南は大佛七條以南に至る。大正元年或は舊道に沿ひ擴築し。或は町地を貫通し軌道を敷設す。同年東山通と命名す。丸太町以北は吉田町を貫通し。愛宕郡田中村に到る。」
 そして、東山通と町並の整備については、次のように記しています。
 「始め二條。仁王門間を東寺町と稱す。其南を法皇寺門前と稱す。其以南白川筋菊屋橋までは町地を新に貫通す。其南コツポリ 小堀叉骨堀なと書す。正字なし。八軒等の小名あり。四條松原間は舊道を擴け。松原以南は新道を擴け。馬町以南は舊寺院境内の道路となるものを應用し。此名稱を下せしものなり。二條以北は岡崎町。聖護院町。吉田町。七條以南二町にして今熊野町あり。」

【註】上記の引用文にあって、現在では目にすることのない地名を簡単に説明しておきましょう。これらの地名・通り名は明治末期の頃までの呼び名です。道路が拡築されあるいは新設され、京都市電の開通とともに「東山通」と命名されました。これがいまの「東大路通」なのです。

1:「コツポリ(小堀叉骨掘)」
 《元・コッポリ通界隈》

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 知恩院前の白川に架かる菊屋橋から南にかけて、祇園(八坂神社)石段下へ出る狭い道がありました。この道を「こっぽり通」あるいは「こっぽり町筋」と称していた。
 ちなみに、四条通北裏(いま祇園会館のある辺り)には、幕末まで近江の膳所藩邸があり、明治の廃藩後は膳所裏と称される道でした。

2:「八 軒」
 《元・八軒(藪ノ下)界隈》

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 八坂神社(祇園)石段下から南側の一帯、南は神幸道(八坂神社南樓門前を経て長楽寺・東大谷廟へと続く道)までを云い、俗に「藪ノ下」とも称された。
 ちなみに、八軒から南の松原通にかけては、「蛇(くちなは)の辻子」と云われる道でした。これは、元禄期に太秦安井から移転した安井門跡(いまの安井神社の辺り)への参詣道で、蛇(くちなわ)のように細長い道だったことに因む呼称でした。

   【続く】

2019年12月 6日 (金)

看板いろいろ その31

きんなべ
  大和大路四条下ル博多町
  鍋料理

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わらじや

  東山区七条通本町東入
  うぞふすい(鰻のコース料理)
  寛永元年(1624)創業とか、400年の歴史

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亀屋清永
  東山区東大路通四条下ル
  和菓子
  元和3年(1617)創業、江戸幕府から禁裏御用達の上菓子司を許される

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鍵甚良房
  東山区大和大路四条下ル小松町
  和菓子

Photo_20190910153101

御翠簾(安村すだれ店)
  大和大路四条下ル博多町
  各種すだれ、神社仏閣用の御簾(みす)

Photo_20190910154401

安村すだれ店ショーウインドーにありました

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