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2019年12月13日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(1)

このシリーズは、次のような内容で3回にわたって書いてみます。
 内容:1. 東山通ができた頃の京都
    2. 東山通と市電「東山線」の開通
    3. 「東山通」成立当時の沿道の様子

蒲団着て寝たるすがたやひがし山  嵐雪  
 緩やかな起伏を見せる東山連山(東山三十六峰)を、蕉門の高弟であった服部嵐雪はこのように詠んでいます。
 『都名所圖会』は東山三十六峰を、「此橋上の半より東に向へば、洛東の勝地木の間〳〵に顕れて平安の佳景こゝに止る。」と褒め立てています。(ここに言う「此橋」とは五条橋のこと)
 この東山連山の西麓を南北に通っているのが、現・東大路通=旧称・東山通です。京都市街地を南北に通るメインストリートの一つで、生活上だけではなく、「東山三十六峰」が西に向かって緩やかに傾斜する一帯には多くの名刹・古社や名所などの観光地、また岡崎地区には多くの文化施設の建造物や庭園などが多数散在する重要な道路なのです。

1. 東山通ができた頃の京都

 京都の地位は江戸期の半ば頃から低下していたのですが、明治維新で首都が実質的には東京へ遷るとさらに衰退していきます。
 このような状況にあった京都は復興と近代化のため、インフラ整備とともに産業振興が喫緊の課題となりました。
 こうして、京都市は明治41〜45年(1908〜1912)に、「三大事業」と称して大規模にして近代的な都市基盤整備事業を実施します。
 三大事業とは、① 第二琵琶湖疎水の建設、② 疎水を利用した上水道の整備、③ 道路拡築と電気軌道敷設、の3つを言います。

 今回の記事では、今でこそ繁華な「東山通(現・東大路通)」ですが、上記三大事業の「③ 道路拡築と電気軌道敷設」との関わりで、成立当時の沿道の様子を見てみようと思います。

 『京都坊目誌』は、大正初期当時における「東山通(現東大路通)」の様子を次のように記しています。
 「東山通 北は聖護院町東丸太町に起り。南は大佛七條以南に至る。大正元年或は舊道に沿ひ擴築し。或は町地を貫通し軌道を敷設す。同年東山通と命名す。丸太町以北は吉田町を貫通し。愛宕郡田中村に到る。」
 そして、東山通と町並の整備については、次のように記しています。
 「始め二條。仁王門間を東寺町と稱す。其南を法皇寺門前と稱す。其以南白川筋菊屋橋までは町地を新に貫通す。其南コツポリ 小堀叉骨堀なと書す。正字なし。八軒等の小名あり。四條松原間は舊道を擴け。松原以南は新道を擴け。馬町以南は舊寺院境内の道路となるものを應用し。此名稱を下せしものなり。二條以北は岡崎町。聖護院町。吉田町。七條以南二町にして今熊野町あり。」

【註】上記の引用文にあって、現在では目にすることのない地名を簡単に説明しておきましょう。これらの地名・通り名は明治末期の頃までの呼び名です。道路が拡築されあるいは新設され、京都市電の開通とともに「東山通」と命名されました。これがいまの「東大路通」なのです。

1:「コツポリ(小堀叉骨掘)」
 《元・コッポリ通界隈》

Photo_20191202161801
 知恩院前の白川に架かる菊屋橋から南にかけて、祇園(八坂神社)石段下へ出る狭い道がありました。この道を「こっぽり通」あるいは「こっぽり町筋」と称していた。
 ちなみに、四条通北裏(いま祇園会館のある辺り)には、幕末まで近江の膳所藩邸があり、明治の廃藩後は膳所裏と称される道でした。

2:「八 軒」
 《元・八軒(藪ノ下)界隈》

Photo_20191202162001
 八坂神社(祇園)石段下から南側の一帯、南は神幸道(八坂神社南樓門前を経て長楽寺・東大谷廟へと続く道)までを云い、俗に「藪ノ下」とも称された。
 ちなみに、八軒から南の松原通にかけては、「蛇(くちなは)の辻子」と云われる道でした。これは、元禄期に太秦安井から移転した安井門跡(いまの安井神社の辺り)への参詣道で、蛇(くちなわ)のように細長い道だったことに因む呼称でした。

   【続く】

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