戊辰戦争と新選組
戊辰戦争(戊辰の役とも)は、戊辰の年(慶応4年)に武家政権最後の江戸幕府の時代が、明治時代となった時期に1年半にわたって戦われた内戦です。
慶応3年(1867)10月14日に大政奉還され、同12月9日には薩摩・長州と倒幕派公家が王政復古のクーデターをおこして新政府を樹立しました。
将軍徳川慶喜は、京都守護職を解任された松平容保(会津藩主)、同じく京都所司代松平定敬とともに二条城から大坂城に退去しました。
翌明治元年(1868)正月3日、京都南部の鳥羽で新政府軍と旧幕府軍の間で砲撃の戦端が開かれ、鳥羽の砲声を合図のようにして伏見でも市街戦が始まった。この鳥羽・伏見の戦いが戊辰戦争の発端となったのです。
はじめ、両軍は一進一退で拮抗していたが、翌4日、朝廷は薩長軍を官軍と認定したため、旧幕府軍は朝敵とされたことで動揺が広がり、諸藩は次々と幕府側から離れて薩長軍側につきました。
戊辰役東軍西軍激戦之址(伏見区納所下野)
戊辰戦争戦死者慰霊碑
碑文には次のようなくだりがある。「それぞれが正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により 或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります」
こうなると、それまで京都守護職のもと「会津藩預かり」で幕府の非正規の警察組織として、幕府を転覆させようとする洛中の尊王攘夷派の志士を不逞浪士として厳しく弾圧していた新選組は厄介者扱いをされることになります。それでも幕府の武士として戦う道を選び、会津藩兵とともに旧伏見奉行所に立てこもりました。
伏見奉行所跡(伏見区西奉行町)
しかし、御香宮に陣を敷いた薩摩・長州の新政府軍の猛砲撃を受けます。この時の戦闘では伏見の市街地南部のかなりが焼失しています。
料亭「魚三楼」に残る弾痕(伏見区京町三町目)
旧幕府軍・新選組は、新政府軍との戦いで兵力で薩摩長州軍を圧倒するものの、銃火器で劣ったため惨敗します。
そして正月6日には、徳川慶喜は自軍を見捨てて松平容保などとともに大坂を脱出、さっさと江戸に帰って江戸城に入り新政府に対して恭順の意を表ます。
以後、旧幕府軍・新選組は甲州勝沼の戦いで負流(新撰組解体)、江戸城を無血開城し、宇都宮の戦いで負け、幕臣の結成した彰義隊による上野の戦いで負ける。奥羽越列藩同盟を結成するも長岡・会津・仙台・庄内の各藩が敗北して瓦解する。
そして、旧幕府軍最後の砦となったのが函館の五稜郭で、抗戦派の旧幕臣や土方歳三など新選組を引き連れた榎本武揚の軍でした。しかし、明治2年(1869)4月には新政府軍の猛攻撃の前に敗れて、1年半にわたる戊辰戦争は終決しました。
新撰組副長の土方歳三は戦死、幕府海軍指揮官の榎本武揚は降伏。新撰組局長の近藤勇はそれより以前の下総流山の戦いで敗北、投降して斬首されている。
幕府に仕えていた官軍の旧幕府軍は戊辰戦争に敗れて朝敵・賊軍となり、新政府軍がとって代わり官軍となりました。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われる所以です。いつの時代でも、常に正義が勝利するのではなく、道理とは関係なく強いものが勝つのであって、勝者が正義となるのです。
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