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2020年5月

2020年5月29日 (金)

町名の「何で?」 (その2)

 先頃の記事『町名の「何で?」(その1)』では、「*丁目(町目)」という町名は、その町がいくつ目(何番目)の町であるかを意味していると書きました。

 今回は、それならこれは何でなの?と思わせる町名について考えてみました。

 下京区にある「下魚棚通」、この通りは七条通の一筋南にあって、西洞院通と大宮通の間を通っています。通り名称の由来を『京都坊目誌』には、「慶長以来此街に魚鳥市場あり。後ち魚棚に移す。街名のみ之に存す」と記す。「魚棚」と言うのは今の六条通りのことです。

東魚屋町
 この六条通(旧称・魚棚通)に、下魚棚通から魚鳥菜果を賣買する市場が移転してきたという。

Photo_20200521165901
 その下魚棚通の、西堀川通と猪熊通間の北側に「下魚棚四丁目」という町があります。
 ところが、この「下魚棚四丁目」だけがポツンといった感じで存在していて、その周辺に「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」は存在していません。
 『京都坊目誌』を見ると、「下魚棚四丁目 西洞院より四町目に當る。故に名とす。」、つまり西洞院から四つめの町にあたることが町名の由来だとしています。したがって、西洞院通から4丁(約436メートル)の距離に位置する町と云うわけではないのです。

 ちなみに、西洞院通りから西へ順に「大黒町」「土橋町」「八百屋町」と続き、まさに四つめの町が「下魚棚四丁目」でした。
 再びそれらの町名を『京都坊目誌』で見ると、以下のように記していました❗

「大黒町」は、「本町の裏に下魚棚一丁目あり。明治二年三月此に合併す」
「土橋町」は、「本町南裏北側は下魚棚二町目と呼びしが。明治二年三月此に合併す」
「八百屋町」は、「南裏北側は下魚棚三町目と称す。明治二年三月本町に合併す」
 ですから、かつては「下魚棚一丁目」〜「下魚棚三町目」も実在したのですが、合併によって消滅したのです。そして、それらの町も、やはり西洞院通りから数えて何番目の町というのが、町名の由来だったのです❗❗

 つぎです。
 上京区元誓願寺通千本東入にもポツンと孤立したように、「元四丁目」という町があります。

Photo_20200521171701
 『京町鑑』には「▲元誓願寺四町目」とあり、『京都坊目誌』も「元誓願寺通四丁目也、今略稱を用ゆ。」としています。ということで現在の町名は「元誓願寺(通)」が省略されたのです。
 このケースも、東方にある智恵光院通から四つ目の町であることが、町名の由来となっているのでしょうか?
 そう考えた理由は、元誓願寺通の一筋南の笹屋町通には、智恵光院通に始まり西へ順に「笹屋町一町目」から「笹屋町五町目」までの町があることから、同様のネーミングではと類推したのです。
 ところがうまく行きません💦 『京都坊目誌』には元中之町・今出川町・革堂町の各町は、それぞれ元誓願寺一丁目・元誓願寺二丁目・元誓願寺三丁目から町名を改めたものとの記述は見当たりません。
 また、「元四丁目」は智恵光院通からの距離が250m余りですから、4丁(約436m)の距離に位置しているからということでもありません。
 ということで、「元四丁目」だけが智恵光院通から4番目の町であることをもって町名由来としたのでしょうか。どんなものでしょう❗


2020年5月22日 (金)

町名の「何で?」 (その1)

「町(ちょう)」は「丁」とも書きますが、次の3種類の意味があります。
 ① 距離の単位の「ちょう」 1町(丁)は、60間で約109メートル
 ② 面積の単位の「ちょう」 1町(丁)は、三千坪で約9,917.4平方メートル
 ③ 区画(ブロック)の「ちょう」 行政上の単位区画であり生活共同体

 京都市内の地名「**町(ちょう)」は上記③の「ちょう」ですが、この区画(ブロック)としての「ちょう」について考えてみました。
 京都市の行政の基礎単位である「**町」は、「**ちょう」と呼ばせるものが多く、「**まち」とするのは稀です。
 ちなみに、「**まち」と云う呼称は、新町通や室町通など、通り(街路)の名称に見られます。

 なお、近世以前の地図では町名を記すのに、「**町」ではなく「**丁」とするのが通例だったようです。
 例えば、「鉾の辻」と言われる四条室町界隈の鉾町の町名は、函谷鉾丁・菊水鉾丁・月鉾丁・鶏鉾丁といったように、「町」ではなくて「丁」と表記しています。

 さて、冒頭に書いたように「町」を「丁」とも書くことから、町名には区画(ブロック)の丁なのか、それとも距離の丁を意味するのか、判りにくいため戸惑うものがあります。
 いったい、いずれなのかを町名の由来から考えてみました。

 東山区本町通沿いの町名には、本町通五条下ルの「一丁目」から始まり、南は伏見区との境界の「二十二町目」まであります。
 そして、写真の「十九町目」は、『京都坊目誌』に「五條より十九町目に當る、故に名づく」とあります。したがって、町名は五条通から数えて「19番目の町(ブロック)」を意味していて、「19丁の距離にある町」ではないのです。
 しかし、「19番目の町」だけではその位置がよく判りません。なので、判りやすいように「東福寺南門前下ル」と位置を併記しています。

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 ということで、町名に見られる「*丁目」あるいは「*町目」は、その町がいくつめの区画(ブロック)かを意味しているのです。
 他にもいくつかを例示しておきます。(なお、現在の公称町名の表記は全て「*町目」ではなく「*丁目」としている。)

東山区宮川町通の、宮川筋一丁目~八丁目
 「*町目は四條から起算す。」(『京都坊目誌』)としていて、四条通から南へ順に何番目の町なのかを意味する。

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下京区東中筋通の、天使突抜一丁目~四丁目
 「一町目は松原より一町目なり、二町目以下皆同し。」(『京都坊目誌』)で、天使突抜通(東中筋通)北端の松原通から南へ順に一町目・二町目と続く。

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伏見区の新町通の、新町一丁目〜十四丁目
 宇治川の派流北岸にある柿ノ木浜町の北側が「新町一丁目」で、北へ順に二丁目以下が続く。(『京都市の地名』)

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2020年5月15日 (金)

仲源寺の目病み地藏

 このお寺の所在地は、東山区四条通大和大路東入 祇園町南側です。
 浄土宗の寺院で山号は寿福山、所伝では平安時代中期の治安2年(1022)に仏師定朝により建立されて、本尊の地藏菩薩も定朝の作とされる。
 また、後堀河天皇の安貞2年(1228)8月、鴨川に洪水が起きたとき防鴨河使の勢田為兼にこれを防がせた。それ以後、朝廷の勅願寺となって「仲源寺」の額を賜ったとする。
 本尊の地藏菩薩は、俗に「目疾(めやみ)の地藏」とも「雨止みの地藏」とも称される。

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 『都名所圖会』には、仲源寺と本尊について次のように記している。
 「仲源寺は四條大和大路の巽の角にあり、浄土宗にして知恩院に属す。本尊地藏菩薩は土中出現の尊像なり。一説には定朝の作なりとぞ 世の人目疾地藏と稱す。眼病平癒の祈願をすれば霊験あり。実は雨止地藏なり、往来の人驟雨の時此堂に宿りしとなり。(略)」
 本尊の「目やみの地藏」というのは、実は「雨やみの地藏」、つまり「あめやみ」が訛って「めやみ」になったのだとしています。

 それで、元々の呼称であった「雨やみの地藏」の謂れについては、『京都坊目誌』では次のように記しています。
 
 その昔、仲源寺の一帯には人家が非常に少なかったので、にわか雨に遭った旅人がこの仲源寺の堂宇に雨を避けたことから、「雨やみの地藏」と呼び慣わされるようになったと云う。

 ところで、本尊の地蔵尊がなぜ地中から掘り出されたのか。また、なぜ「目病み地藏」と称され、眼病に霊験があるのか。
 『京町鑑』は、概ね次のように記しています。
 
 本尊が定朝の作になる霊像であることから、兵乱の火災で焼けるのを避けるために土中に埋めおかれた。そして、平穏な世になってから掘り出したところ、尊像の目に土砂が入っていたため目を病んだように見えた。
 このことから「目病みの地藏」と言い習わされて、眼病の平癒を祈ると霊験あらたかなことで広く知られたと云う。
 なお、掘り出された場所は、『京童』によると「ちおんゐんのまへなる畠中よりほり出し此所にあんぢしける也」と記し、知恩院の前にある畠だとしています。


2020年5月 8日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 43

下京区で

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2020年5月 1日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 42

中京区での4件です

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