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2020年7月

2020年7月31日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 47

中京区での4件

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2020年7月24日 (金)

平安京(2) ーその規模と街路ー

 延暦13年(794)、桓武天皇によって都は長岡京から平安京に遷された。昔、受験期に遷都の年号を「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と、語呂合わせで覚えたのを思い出します。
 ところで、その平安京の規模はどれほどのものだったのでしょうか。それは今で言えば、おおよそ東が今の寺町通から西は妙心寺・天神川・阪急西市京極駅を繋いだ辺りまで、南北は一条通から九条通までの範囲でした。


平安京復元模型   1/1000(京都市 平安京創生館)
 中央の広い街路が朱雀大路でその手前(南端)に羅城門、奥(北端)に朱雀門が見える。そして、羅城門の東側(右手)は東寺で、西側(左手)が西寺です。
 (写真をクリックすると拡大して見ることができます)


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 10世紀前半の法令集で『延喜式』という文献があります。これは、律令のいわば施行細則集、現在の六法全書のようなもので、日本古代史研究の上で不可欠の文献とされています。

 『延喜式』の写本に「九条家本」があり、現存する諸本の中では最も古いものとされ、国宝に指定されている。
 この『延喜式』には、平安京が縦長の長方形で、大路と小路で碁盤の目状に区画されていたこと、それぞれの道路の幅なども記されています。
 全体の広さは東西が1,508丈(約4.5Km)、南北は1,751丈(約5.2Km)としています。

大極殿磧趾碑

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 平安京北部の中央には天皇の住居である内裏があり、その周囲は政治や儀式のための諸施設がある大内裏でした。
 その大内裏の南面中央部の朱雀門から南に向けて延びるのが朱雀大路で、都はこの大路により東側の「左京」と西側の「右京」とに区分されていました。
 そして、朱雀大路の南端には、平安京の玄関である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 『延喜式』の「京程」の項には、平安京の街路について次のように記しています。(「注記」は省略)

京 程
南北一千七百五十三丈 今勘千七百五十一丈
北際并次四大路、広各十丈
宮城南大路十七丈
次六大路各八丈
南極大路十二丈
羅城外二丈
路巾十丈
小路廿六、広各四丈
町卅八、各四十丈

東西一千五百八丈
自朱雀大路中央、至東極外畔七百五十四丈
朱雀大路半広十四丈
次一大路十丈
次一大路十二丈 
次二大路各八丈 
東極大路十丈
小路十二、各四丈
町十六、各四十丈
右京准此


 つまり、『延喜式』の「京程」に記載された東西に通る大路の名称としては「北際・宮城南・南極」の三本だけ、そして南北の大路は「朱雀・東極」の二本だけのようです。(「注記」として、後になって書き加えられたと見られるものに大宮、東洞院と西洞院がある) そして小路については名称の記載はありません。


 九条家本『延喜式』は「京程」の末尾には、附図として「左京図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図」が掲載されています。
 そして、この附図の「左京図」には、東西路・南北路ともに大路と小路の名称が記載されている。しかし、「右京図」には南北路は大路・小路ともに名称が入っているが、東西路には大路名の記載はあるが小路名の記載は無い。

 このように、『延喜式』の「京程」本文と、「九条家本」に加えられている附図の間では、街路名称の有無や異同がありますが、これは何故なのでしょうか。

 大方の史家に共通した見方としては、次のようなことのようです。
 『延喜式』には、元々上記の九条家写本にある左京・右京図など附図の記載はなかった。
 九条家本『延喜式』は、のちの院政時代(1086〜1185年頃)に延喜式本文を書写したものであり、その後に書写した時に作製した図を加えたもの。つまり、成立年代が異なる延喜式本文と附図を合わせて構成したもので、所謂「取り合わせ本」であるということのようです。
 いずれにしても、九条家本『延喜式』の「左京」「右京図」は、現存する平安京図の中では最も古い時期のものだと見られています。

 ちなみに、平安京成立の当初からすべての大路に定まった名称があったということではなく、諸書に記されている街路名には異称が見られます。また、一条から九条までの数詞のつく大路名以外の街路には固定した名称はなかったようで、平安京に暮らす人々の便宜上あるいは生活上の必要から、大路小路の名称が生じたものと思われます。そして、それらの名称は長い年月を経る中で固定・定着していったということのようです。




2020年7月17日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 46

上京区での4件

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2020年7月10日 (金)

平安京(1) ー山背国から山城国にー

 新しい都が設けられた「やましろの国」を、政治の中心である大和国の平城京から見たとき、現在の奈良県と京都府境界の丘陵にある奈良山(平城山とも)の背後、つまり北側にあります。
 このため「背」の字を採って「山背(やましろ)国」としたとされますが、「山代(やましろ)」国」の字を当てたこともあります。

 延暦13(794)年10月22日、桓武天皇は「遷都の詔」を出して長岡京から平安京へ都を遷します。そして、11月に国名を山城国(やましろのくに)、都の名を平安京と改めました

国境に残る石標
 この石標は山城国と摂津国との境界に立つ石碑で、「これより東 山城国」とある。(大和国との境界ではありません)

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 遷都の詔
「此國山河襟帯 自然作城 因斯形勝 可制新號 宜改山背國 為山城國 叉子来之民 謳歌之輩 異口同辞 號平安京」
(此の国は山河襟帯し、自然に城を為す。斯の形勝により、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。子来の民、謳歌の輩、異口同辞に、平安京と号す。)

 「詔」を判りやすい文に直すと、次のようになるのでしょうか。

 「この国は山河に取り囲まれて、自然の城の作りになっている。このような地に因んで、新しい国名を制定しよう。《山背国》の名を《山城国》と改めるのがよい。子が親のもとに集まって来るように徳の高い君主のもとに喜んで集まって来る民衆や、声をそろえて喜び歌う人々が、異口同音に大声で平安の京(みやこ)と叫んでいる」
 そして、翌年正月16日の宮中の祝宴のときには、踏歌で新しい平安京を誉め讃え、褒め歌が読み上げられる間、多くの臣下が「新京楽、平安楽土、万年春」「新年楽、平安楽土、万年春」と、囃し立てたという。
 註:踏歌=足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝い歌を歌うこと。

 京都盆地は西山・東山・北山に囲まれ、北山から流れる賀茂川と高野川が合流した鴨川は南方で西に流れ、桂川に合流してさらに宇治川・木津川に合流しています。
 このように、市街地を取り囲んんだ三方の山と、南方では川に画された地形は、まさに桓武天皇の詔にある「山河襟帯」の土地となっているのです。近世の地図では、こうした地形状況を俯瞰的な視点で絵画的に描いています。

元禄九年京都大絵図(国際日本文化研究センター蔵)

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 壬申の乱(672)以来、天智の皇統と天武の皇統との間で権力抗争が繰り返され、桓武天皇(天智天皇の曽孫)は天武系の奈良の都(平城京)に替えて天智系の都を造ろうとしました。しかし、長岡京への遷都の途中で桓武の腹心藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。
 そして、この事件に連座したとの疑いをかけられた桓武の弟の早良親王は、配流される途中に飲食を絶って自ら命を絶ちます。この無惨な死により、桓武天皇の周辺には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
 このような暗い影を払拭することを願って、平安の京(みやこ)への遷都にあたっては、中国古代の思想「四神相応」や、風水説・陰陽五行説にかなう最高の場所と見定めて、選んだのが京都盆地だったようです。

 

2020年7月 3日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 45

下京区で

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左京区で

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上京区の2件

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