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2020年7月24日 (金)

平安京(2) ーその規模と街路ー

 延暦13年(794)、桓武天皇によって都は長岡京から平安京に遷された。昔、受験期に遷都の年号を「鳴くよ(794)ウグイス平安京」と、語呂合わせで覚えたのを思い出します。
 ところで、その平安京の規模はどれほどのものだったのでしょうか。それは今で言えば、おおよそ東が今の寺町通から西は妙心寺・天神川・阪急西市京極駅を繋いだ辺りまで、南北は一条通から九条通までの範囲でした。


平安京復元模型   1/1000(京都市 平安京創生館)
 中央の広い街路が朱雀大路でその手前(南端)に羅城門、奥(北端)に朱雀門が見える。そして、羅城門の東側(右手)は東寺で、西側(左手)が西寺です。
 (写真をクリックすると拡大して見ることができます)


Photo_20200606151701

 10世紀前半の法令集で『延喜式』という文献があります。これは、律令のいわば施行細則集、現在の六法全書のようなもので、日本古代史研究の上で不可欠の文献とされています。

 『延喜式』の写本に「九条家本」があり、現存する諸本の中では最も古いものとされ、国宝に指定されている。
 この『延喜式』には、平安京が縦長の長方形で、大路と小路で碁盤の目状に区画されていたこと、それぞれの道路の幅なども記されています。
 全体の広さは東西が1,508丈(約4.5Km)、南北は1,751丈(約5.2Km)としています。

大極殿磧趾碑

Photo_20200305103501
 平安京北部の中央には天皇の住居である内裏があり、その周囲は政治や儀式のための諸施設がある大内裏でした。
 その大内裏の南面中央部の朱雀門から南に向けて延びるのが朱雀大路で、都はこの大路により東側の「左京」と西側の「右京」とに区分されていました。
 そして、朱雀大路の南端には、平安京の玄関である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

Photo_20200305103701
 『延喜式』の「京程」の項には、平安京の街路について次のように記しています。(「注記」は省略)

京 程
南北一千七百五十三丈 今勘千七百五十一丈
北際并次四大路、広各十丈
宮城南大路十七丈
次六大路各八丈
南極大路十二丈
羅城外二丈
路巾十丈
小路廿六、広各四丈
町卅八、各四十丈

東西一千五百八丈
自朱雀大路中央、至東極外畔七百五十四丈
朱雀大路半広十四丈
次一大路十丈
次一大路十二丈 
次二大路各八丈 
東極大路十丈
小路十二、各四丈
町十六、各四十丈
右京准此


 つまり、『延喜式』の「京程」に記載された東西に通る大路の名称としては「北際・宮城南・南極」の三本だけ、そして南北の大路は「朱雀・東極」の二本だけのようです。(「注記」として、後になって書き加えられたと見られるものに大宮、東洞院と西洞院がある) そして小路については名称の記載はありません。


 九条家本『延喜式』は「京程」の末尾には、附図として「左京図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図」が掲載されています。
 そして、この附図の「左京図」には、東西路・南北路ともに大路と小路の名称が記載されている。しかし、「右京図」には南北路は大路・小路ともに名称が入っているが、東西路には大路名の記載はあるが小路名の記載は無い。

 このように、『延喜式』の「京程」本文と、「九条家本」に加えられている附図の間では、街路名称の有無や異同がありますが、これは何故なのでしょうか。

 大方の史家に共通した見方としては、次のようなことのようです。
 『延喜式』には、元々上記の九条家写本にある左京・右京図など附図の記載はなかった。
 九条家本『延喜式』は、のちの院政時代(1086〜1185年頃)に延喜式本文を書写したものであり、その後に書写した時に作製した図を加えたもの。つまり、成立年代が異なる延喜式本文と附図を合わせて構成したもので、所謂「取り合わせ本」であるということのようです。
 いずれにしても、九条家本『延喜式』の「左京」「右京図」は、現存する平安京図の中では最も古い時期のものだと見られています。

 ちなみに、平安京成立の当初からすべての大路に定まった名称があったということではなく、諸書に記されている街路名には異称が見られます。また、一条から九条までの数詞のつく大路名以外の街路には固定した名称はなかったようで、平安京に暮らす人々の便宜上あるいは生活上の必要から、大路小路の名称が生じたものと思われます。そして、それらの名称は長い年月を経る中で固定・定着していったということのようです。




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