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2020年7月10日 (金)

平安京(1) ー山背国から山城国にー

 新しい都が設けられた「やましろの国」を、政治の中心である大和国の平城京から見たとき、現在の奈良県と京都府境界の丘陵にある奈良山(平城山とも)の背後、つまり北側にあります。
 このため「背」の字を採って「山背(やましろ)国」としたとされますが、「山代(やましろ)」国」の字を当てたこともあります。

 延暦13(794)年10月22日、桓武天皇は「遷都の詔」を出して長岡京から平安京へ都を遷します。そして、11月に国名を山城国(やましろのくに)、都の名を平安京と改めました

国境に残る石標
 この石標は山城国と摂津国との境界に立つ石碑で、「これより東 山城国」とある。(大和国との境界ではありません)

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 遷都の詔
「此國山河襟帯 自然作城 因斯形勝 可制新號 宜改山背國 為山城國 叉子来之民 謳歌之輩 異口同辞 號平安京」
(此の国は山河襟帯し、自然に城を為す。斯の形勝により、新号を制すべし。宜しく山背国を改めて、山城国と為すべし。子来の民、謳歌の輩、異口同辞に、平安京と号す。)

 「詔」を判りやすい文に直すと、次のようになるのでしょうか。

 「この国は山河に取り囲まれて、自然の城の作りになっている。このような地に因んで、新しい国名を制定しよう。《山背国》の名を《山城国》と改めるのがよい。子が親のもとに集まって来るように徳の高い君主のもとに喜んで集まって来る民衆や、声をそろえて喜び歌う人々が、異口同音に大声で平安の京(みやこ)と叫んでいる」
 そして、翌年正月16日の宮中の祝宴のときには、踏歌で新しい平安京を誉め讃え、褒め歌が読み上げられる間、多くの臣下が「新京楽、平安楽土、万年春」「新年楽、平安楽土、万年春」と、囃し立てたという。
 註:踏歌=足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝い歌を歌うこと。

 京都盆地は西山・東山・北山に囲まれ、北山から流れる賀茂川と高野川が合流した鴨川は南方で西に流れ、桂川に合流してさらに宇治川・木津川に合流しています。
 このように、市街地を取り囲んんだ三方の山と、南方では川に画された地形は、まさに桓武天皇の詔にある「山河襟帯」の土地となっているのです。近世の地図では、こうした地形状況を俯瞰的な視点で絵画的に描いています。

元禄九年京都大絵図(国際日本文化研究センター蔵)

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 壬申の乱(672)以来、天智の皇統と天武の皇統との間で権力抗争が繰り返され、桓武天皇(天智天皇の曽孫)は天武系の奈良の都(平城京)に替えて天智系の都を造ろうとしました。しかし、長岡京への遷都の途中で桓武の腹心藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。
 そして、この事件に連座したとの疑いをかけられた桓武の弟の早良親王は、配流される途中に飲食を絶って自ら命を絶ちます。この無惨な死により、桓武天皇の周辺には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。
 このような暗い影を払拭することを願って、平安の京(みやこ)への遷都にあたっては、中国古代の思想「四神相応」や、風水説・陰陽五行説にかなう最高の場所と見定めて、選んだのが京都盆地だったようです。

 

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