平安京(3) ー右京の衰退ー
先頃の記事(「平安京(2)ー規模と街路ー」7月24日付)では、平安京がどのような規模だったかを『延喜式』により見ました。
その『延喜式』の「九条家本」(写本)には、附図として左京図・宮城図・内裏図・八省院図・豊楽院図・右京図が掲載されています。
そして左京・右京の両図ともに、平安京の外形と碁盤目状の街路については、初期の計画通りに描かれているようです。
平安京復元模型図
前回記事のものと同じですがもう一度(京都市平安京創成館)
ちなみに、九条家本『延喜式』(写本)に使用された用紙は、主に平安後期の文書の裏側を使っていることが研究者の検討により判っているようです。
それら書写に使用されている用紙(紙背文書)の検討結果から、九条家本は10世紀末頃〜13世紀前半頃の間の、いくつもの書写から成り立っていると見られています。
そして、元々の『延喜式』が編まれた当時には無かった附図「左京図」および「右京図」は、平安後期の1140年代頃(院政期)に成立したものをベースにして、何度かの加筆を経たものだろうと見られています。
さて、平安京の町並みは唐の長安と洛陽をモデルとしていて、名称も左京を洛陽城、右京を長安城としています。
しかし、平安時代も中頃になると著しい変貌を見せて、「右京」は甚だしく衰退する一方で、「左京」は大いに発展して繁栄したのです。
復元模型に見る西南部分の様子
南西部分は開発されず池沼・林のままで残っている様子が判る
復元模型に見る鴨川東部の様子
鴨川東部の白川(岡崎)には寺院や邸宅が増えている
「右京」が衰退した理由は、地形的には京都盆地西南部が低地となっていて埿(うき)と呼ばれる泥深い沼・泉が多く、住居地としては適さないため開発に手間取る一方、建設された家屋や道路も荒廃してしまい、平安時代中期以降には再び耕地化してしまったからだとされています。
そのため、「左京」の場合は街路の名称・位置ともに現在まで踏襲継続していますが、「右京」の場合は耕地化され他ことからほとんどの街路が無くなってしまったようです。
平安京の右京はそのような自然環境だったため衰退したのですが、一方で西南部については全く建設されなかった所があったようで、それが次のような文献から窺うことができます。
①「太政官符」〈平安中期の貞観13年(871)〉
山城国葛野郡と紀伊郡の一部にあたる平安京の西南隅の部分に、「葬送地と放牧地を定むる事」としているそうです。これは、平安京の都市計画では右京九条四坊に当たる地域(八条大路・九条大路・西京極大路・木辻大路を四囲とする一帯)を、葬送地と放牧地として指定したことを布告しているのです。
つまり、「右京図」が描かれた頃、この一帯には大路は建設されておらず、計画通りには市街地ができていなかったことになり、このことは考古学的な調査でも確認されているようです。
② 慶野保胤『池亭記』〈平安中期の天元5年(982)に成立〉
漢文調で書かれたものですが、概ね次のようなことが記されています。「東西二京を見ていくと、西京(右京)は人家が追々と疎らになり、ほとんど幽墟に近くなっている。人は去っても来る事がない。家屋は崩壊しても建造される事がない」 この記述から、当時の右京が市街地としては既に衰微していたことが見て取れることでよく知られています。
ところが、考古学的な調査によれば、平安中期の右京には邸宅が点在していて、すっかり衰退していくのは平安後期になってからの事だとみられるようです。
③ 皇円『扶桑略記』〈平安後期に成立〉
応徳3年(1086)6月26日条に、西京(右京)にある300余町の田の稲を検非違使を遣わして刈り取り、牛馬の飼料とした旨の記録があるそうです。
右京の全面積がおおよそ608町ですから、少なくともその半分は既に耕地となっていたと読み取れるのです。
これらを総合的に見ると、おおよその所は次のように考えられるようです。
平安建都後80年近くを経た頃になっても、平安京南西部隅の一帯には街路も造成されておらず、市街地は完成していなかった。
平安建都の後、約200年近くを経た頃には右京の市街はすっかり衰亡してしまい、約300年後には約半分の土地が耕地と化していたようです。
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