桂川・嵐山・梅津
桂川は丹波高地の東辺、左京区広河原に発して亀岡盆地に達し、険しい保津峡の山間部を経て嵐山へと至る。そして、松尾・松室辺りから流れを東に変えて、京都盆地の西部をやや東南に屈曲しながら南流して、下鳥羽で鴨川を合わせたあと淀川に合流している。
桂川は古くは葛野川(かどのがわ)と称されたが、桂川左岸は古くから氾濫・洪水が頻発して、6世紀の頃にこの一帯を支配した葛野の秦氏一族によって治水と用水開発がなされる。この時の大堰の完成によって大堰川と呼ばれるようになった。
この時、治水工事で築かれた約1kmの堤防(嵐山公園から松尾橋の間)を、罧原堤(ふしはらつつみ)という。
なお、桂川には多くの呼称があって、葛野川・大堰川・大井川・葛川などと呼ばれ、流域によって嵐山とその上流では大堰川・保津川と呼ばれ嵐山から下流は桂川と呼ばれる。
渡月橋
嵐山と小倉山の間を縫うように流れる大堰川は、その優れた景観により平安時代から風光を愛でて天皇の行幸や御幸があり、貴族の遊覧の場となっていた。宴遊では漢詩・和歌・管弦の三艘の船を仕立ててそれぞれに得意なものが乗った。
洛西は、現在も嵯峨野の美しい風景や、嵐山の紅葉や保津川下りでよく知られている。
罧原堤(ふしはらつつみ)
中洲と川の向こう側を左手(北)から右手(南)に続くのが罧原堤
「梅津」は桂川左岸(罧原堤)の東側に拓けた地で、元は桂川の旧流路に挟まれた中洲(自然堤防上)に位置した。
「津」というのは「船着き場」のことで、豪商の角倉了以が狭かった保津峡を開削して、丹波と京を舟運で結ぶようになってから、嵯峨津・梅津など一帯の津が京の町に通じる外港としての機能を果たした。
梅津は特に栄えた津であり、現在の梅津南町付近は梅津筏浜と呼ばれ、丹波で伐り出された材木を筏に組んで桂川を下って陸揚げされ、薪炭などの物資も運ばれたという。
『都名所圖會』には、「梅津川 大井川の流なり。此所に船渡しあり、四條渡しといふ、材木を商ふ民家多し。」と記す。
材木・薪炭商は製材業に発展し、三条街道(旧下嵯峨街道)から太秦・山ノ内を経て東に運ばれ京の町作りに使われた。
梅宮大社
「続日本後紀」に見える古社
梅宮大社(右京区梅津フケノ川町)
西梅津にあって、祭神と共に祀られるのは嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后嘉智子。
皇后は常々皇子の無いことを思い悩み、当社酒解神に祈願されたところ身籠ることができた。そして、梅宮社の清砂を敷いて王子(のちの仁明天皇)をお生みになったという。
この伝承に因んで、現在も子授け・安産の神として信仰されていて、本殿東側の「またげ石」を跨ぐと子宝に恵まれると信じられている。
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