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2020年9月18日 (金)

本能寺の変 ー光秀と紹巴ー

 京都市上京区の下長者町通油小路西入に「紹巴町(じょうはちょう)」という町があります。
 『京都坊目誌』は、「始め戸澤町と云ふ。連歌師臨江軒里村紹巴此町に住す。以來紹巴町と云ふ」と町名の由来を記し、「里村紹巴ノ宅址 紹巴町南側にあり。(略)」としています。
 里村紹巴は安土桃山時代の代表的な連歌師で、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・細川幽斎など多くの武将や公家達と連歌や茶の湯を通した交流がありました。
 ちなみに、いま放映中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、明智光秀の生涯を描いているようです。(実は私は一度も見たことがありません、性分というのかテレビドラマや新聞小説などを根気よく毎回欠かさず見るのが苦手なのです。)

 今回は、光秀の織田信長への謀反について書いてみます。

Dscn1657
 明智光秀は、戦国時代を終わらせて天下統一の目前にあった主の織田信長に謀反した反逆者とされることが多いようですが、その人物像は必ずしも明らかになっていないようです。
 織田信長麾下の有能な武将であった光秀は、天正10年3月5日の甲州攻めのあと、酒宴の席で信長の逆鱗に触れたことから、5月には徳川家康の接待役から外され、中国で毛利勢と対陣していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)を支援するために出陣を命じられます。
 信長幕下の好敵手であった秀吉の下に入ることとなった光秀にとって、この扱いは言いようの無い屈辱の思いが強かったでしょう。
 こうしたことだけではなく、信長は他にも比叡山焼き討ちと数千の僧俗殺戮、尾張長島の一向一揆では2万の人々を焼殺、岐阜城での正月酒宴の席で朝倉義景・浅井長政・浅井久政3人の首を漆で固めて金泥で彩色した薄濃(はくだみ)を酒の肴にして興じたことなど、信長の作法に外れた戦の仕方については強い違和感を覚えていただけではなく、信長の狂気を垣間みていたようです。

 こうして、光秀は中国出陣の準備のため、安土城からいったん居城の丹波亀山城(現・京都府亀岡市)へ帰ります。
 そうした折、天正10年(1582)5月28日 愛宕神社西ノ坊、威徳院で開かれた連歌会(愛宕百韻)で、里村紹巴は9人の参加者の1人でした。
 連歌会の始まったのが遅かったため深更に一巡したところで仮眠、明け方から再開して九吟百韻を卷き終わったのは辰の刻(午前8時)といわれる。
 それを愛宕神社に納めて、明智光秀は亀山城に戻って行きました。

 その時の発句(立て句)が光秀の有名な「ときは今あめが下しる五月哉」、
 これに威徳院の行祐がつけた脇句は「水上まさる庭の夏山」、
 そして紹巴のつけた第三句が「花落つる流れの末をせきとめて」でした。
 世の一部には信長と光秀の不仲という根強い噂があったこともあって、里村紹巴はこの光秀の発句が信長に対する謀反の決意を述べたものと解釈したのだと見る向きもあるようです。

 「とき(土岐氏)」が、「あめ(天下)」に「下しる(下知する)」と解釈することが可能だとするのです。
 とすれば、土岐氏一族の明智光秀が「天下」に命令をくだす、つまり「信長に代わって儂が天下人になるのだ」となり、「謀反の予告」として有名になったのです。
 しかし、これは信長に謀反したと云う結果を見て、あと付けした無理筋の解釈だと一笑に付してしまうこともできます。
 ともあれ、光秀は天正10年6月2日卯の刻(午前6時)、信長の宿舎である本能寺を襲って自害させます。(本能寺の変)

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 しかし、本能寺の変を知った羽柴秀吉は、備中高松城からの遠路約230kmを「中国大返し」と称される猛烈な早さで取って返し、山崎(天王山)の戦いで明智光秀を討ったのです。
 そして、信長の後継の位置についた秀吉は朝廷から豊臣の姓を賜り、やがて天下を統一して豊臣政権を築きました。





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