鴨長明の草庵(方丈)
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲と、またかくの如し。」
これは、鴨長明が著した『方丈記』の出だし部分です。
現代語訳では、「流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。世の中の人と住まいも、またこれと同じなのだ。」
『方丈記』は、『徒然草』、『枕草子』と並んで「古典日本三大随筆」に数えられ、日本人の無常観を表した作品といわれています。
書かれたのは鴨長明が58歳の時で、およそ800年前に当たる鎌倉時代の1212年頃とされており、隠遁生活に入り終の住処として、山科醍醐の日野に方丈庵と称された小さな草庵を結んで方丈記を執筆しました。
鴨長明の草庵
河合神社(下鴨神社の摂社)境内に方丈が復元されています。
この草庵は、一辺が一丈の方形の庵であったことから「方丈」と称したようです。
一丈(約3m)四方の広さといえば四畳半ほどの広さですから、1棟1室の小さな小屋といった感じです。
地面に据えた石に土台を乗せ、細い角材や丸太で柱・梁を組み、杉皮で屋根を葺き棟には竹を置いて、竹で編んだ網代と戸板の薄い壁、窓は蔀戸といったものです。
長明は隠遁して方々を転々としたあと日野に落ち着いたのですが、この方丈庵は移動に便利なように組み立てや解体が容易にできる作りになっています。解体すると牛車に積んで容易に運ぶことができ、いつでも移住することができるような簡便さは現在のプレハブ住宅といった感じです。
河合神社
ところで、河合神社の正式名称は小社宅神社(おこそべ神社)というのですが、小社宅は社戸(こそべ)の意味だということで、賀茂社の社家の屋敷神を指しているそうです。
鴨長明は賀茂社社家の生まれで、後鳥羽上皇は長明をこの河合社の禰宜に任じようとしたが、一族の中で反対にあって実現しなかったという。そして、このことが鴨長明の出家と隠遁生活に入った一因だとも言われる。
話が少し(大きく?)それますが、放浪・漂泊の俳人と言われた種田山頭火は、旅に明け暮れて喜捨を頼りとする生活も、50歳頃になって心身ともに疲れ果てると一所に落ち着くことを望むようになります。
そこで、友人たちの協力により故郷に近い山口県小郡に、「其中庵(ごちゅうあん)」と名付けた庵を結びます。
譲り受けたのは草葺きの古い一軒家で、間取りは四畳半の部屋と二畳の部屋が二間という簡素なものでしたが、この「其中庵」は長明の「方丈庵」よりは少しばかり大きなものでした。
もっとも、山頭火はこの草庵を得たもののやはり漂泊の旅に出ることが多く、古いところへ手入れもしなかったために傷みがひどくなり倒壊してしまいました。
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