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2021年3月

2021年3月26日 (金)

暖簾いろいろ その36

下鴨茶寮
 
 左京区下鴨宮河町

 料亭
 
 安政3年(1856)の創業とか

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花 折
 
 左京区下鴨宮崎町
 
 さば寿司

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いづみ屋
  東山区新道通団栗下ル
  山椒ちりめん

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宮川町にて

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2021年3月19日 (金)

別の名もあった通り 1 ー正面通ー

 正面通は豊臣秀吉が天正14年(1586)、荒廃していた古の七条坊門小路の東に方広寺大仏殿を建立して、その正面を起点とする道として再開成立しました。これは天正中期の末以降のことです。
 現在の正面通は、東は大和大路通から西は千本通に至っています。しかし、大正5年(1916)刊の『京都坊目誌』によると、当時の正面通はその西端は大宮通の辺りまでだったようです。その西方の裏方町辺りからは、明治26年(1983)に幅3間(約5.5m)の道路に拡張されるまでは野道で、その左右は田畑だったということです。

方広寺大仏殿跡に建立された豊国神社から正面通を望む

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 正面通には「御前通」「中珠数屋町通」という別名があったのですが、それがいつ、どうしてできたのかを順に見てゆきます。

 「御前通」といえば、普通は北野天満宮の東側を通っている南北の道を言い、その昔は「右近馬場通」と言われました。当時は寺之内通から北野天満宮の門前を経て下立売通辺りまでの道だったようです。
 ところが、『京都坊目誌』では「北野神社御前通と云ふ意なり。(中略)。西本願寺前に叉御前通あり」として、御前通りは2つあったと云うのです。
 ここで取り上げるのは、西本願寺の前を東西に通っている御前通です。


 天正19年(1591)正月、大坂天満にあった本願寺(現・西本願寺)は豊臣秀吉から京都への移転を命じられ、七条坊門堀川(現在の正面通堀川)に移ってきました。本願寺御影堂の前の道ということで、正面通には御前通という別名が生じ、西本願寺寺内町もできました。これは天正末期から文禄期にかけてのことと考えられます。もっとも、現在では御前通という通称が使われることはほとんどありません。

西本願寺 御影堂門

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 慶長7年(1602)3月、徳川幕府初代将軍の徳川家康から寄進を受けた土地、東六条の地に西本願寺から分かれて東本願寺が創立されました。

東本願寺 御影堂門

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 寛永18年(1641)6月、徳川幕府三代将軍の徳川家光から東本願寺東方の田畑や野原だった所に屋敷地を与えられ、ここに造立されたのが百間屋敷といわれた東本願寺別邸の渉成園です。
【註】「百間屋敷」は、屋敷地(南北は六条と七条の間、東西は東洞院と御土居の間)の中央に造立された100間四方の屋敷で、屋敷の周囲は枳穀(カラタチの木)で囲ったことから枳殻邸とも称された。

 そして、御前通りの東本願寺と渉成園の間には中珠数屋町通という別名がつけられ、ここに東本願寺寺内町が形成されました。これは慶長から元和・寛永にかけてのことだろうと考えられます。

枳殻邸(百間屋敷)

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 このように、西本願寺・東本願寺・渉成園(枳殻邸)が造立されたため、御前通は分断されることとなりました。

 ということで、「中珠数屋町通」は御前通の一部の別名であり、その「御前通」は正面通の一部の別名ということになるのです。そして、御前通という呼称は西本願寺寺内町(古寺内)と東本願寺寺内町(新寺内)の両寺内の範囲での通称であったことが判ります。
 そうしたことを、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は次のように記しています。
 「◯中珠數屋町通  一名御前通 △此通東は東本願寺百間屋敷にて行あたり 西は西本願寺前にて行當也」
 つまり、中珠数屋町通は御前通の別名であり、御前通は百間屋敷(渉成園)と西本願寺の間を言うとしているのです。そしてこの記述のすぐ後には、御前通に面した町々の名前を、東は廿人講町から西は珠数屋町まで列挙しています。


 ちなみに、『京都坊目誌』も同様に、「正面通 東は大佛方廣寺前に起り。西は東枳殻馬塲に至る。西にて凡中珠數屋町其西にて御前通に當る。大佛正面通と云ふ意なり。」と記しています。ただ、中珠数屋町通が御前通の別名であることに、直接には言及していません。
【註】引用文中の「東枳穀馬場」は、渉成園(枳殻邸)の東側で、現在では河原町通になっている。





2021年3月12日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 54

中京区での4件です

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2021年3月 5日 (金)

新選組と伊東甲子太郎

 先日、所用でリーガロイヤルホテルまで出かけた時、ホテル敷地の端で新選組の不動堂村屯所跡碑を見かけました。
 この近くには、他にも新選組にゆかりのある所があるのを思い出したので、見てまわることにしました。

 壬生浪士組(のちの新選組)は、文久2年の結成当初は壬生郷士の八木家・前川家などを屯所として分宿、京都守護松平容保から不逞浪士の取り締まりと手中警備を任されます。
 すぐそばの壬生寺境内で大砲や剣術・馬術の訓練をしていたのですが、世帯が大きくななってきたので、慶応元年に屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移しました。

本願寺西の太鼓楼

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 しかし、ここでも武芸・砲術訓練をするなどひどい狼藉を働いたため、西本願寺は不動堂村の油小路通木津屋橋下ルに広大な地所を購い、そこに屯所を建てて体よく追い払われます。
 この新しい屯所はちょっとした大名屋敷のよな立派なものだったと云う。

明王院不動堂
 本尊は不動明王で、不動堂村の名前の由来とされる。
 のち不動堂町となり、昭和41年(1966)塩小路通りを境に北不動堂町・南不動堂町に分離。

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新選組不動堂村屯所跡碑

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 新選組は慶応3年幕臣に取り立てられるが、戊辰戦争で幕府軍は敗退し、その後各地を転戦するがやがて解体に至る。

 伊東甲子太郎(北辰一刀流の達人)は元治元年、藤堂平助の仲立ちで弟や門人など七名とともに新選組に入隊して参謀兼文学師範に遇されるが、勤王思想(倒幕派)の伊東と尊王攘夷(佐幕派)の新選組は思想の違いから折り合わなかった。
 このため伊東は慶応3年3月20日、御陵警備任務の拝命と薩摩藩の動向探索を名目にして、同志15名とともに新撰組を離脱。御陵衛士を結成して東山高台寺の月真院に本拠を置いて高台寺党と称され、薩摩藩の支援を受けて倒幕を説いた。
 しかし、新選組の局中法度書には「局ヲ脱スルヲ不許」の一条もあり、新選組と御陵衛士双方の間で何事もなく済むはずもなく、新選組最後の抗争事件となったのです。

 果たせるかな、御陵衛士の伊東甲子太郎は、幕臣に取り立てられた新選組により襲撃暗殺されます。
 近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された3日後、慶応3年11月18日(1867年12月13日)、口実をもうけ近藤勇の休息所(妾宅)に招かれた伊東甲太郎は接待を受けます。そして、酔わされた伊東は月真院への帰途、油小路通木津屋橋上ルの本光寺門前付近で新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されたのです。(油小路事件)


伊東甲子太郎殉難之跡

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 伊東を酒に酔わせて暗殺に及んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警めだろうと思われます。
 伊東暗殺のあと遺体は油小路七条の路上に放置されて、御陵衛士を誘い出す囮として使われます。後に遺体の収容に来た御陵衛士たちは、待ち伏せていた新選組と戦闘となり、やはり新撰組を脱して御陵衛士に加わっていた藤堂平助ら三名が戦死しています。





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