新選組と伊東甲子太郎
先日、所用でリーガロイヤルホテルまで出かけた時、ホテル敷地の端で新選組の不動堂村屯所跡碑を見かけました。
この近くには、他にも新選組にゆかりのある所があるのを思い出したので、見てまわることにしました。
壬生浪士組(のちの新選組)は、文久2年の結成当初は壬生郷士の八木家・前川家などを屯所として分宿、京都守護松平容保から不逞浪士の取り締まりと手中警備を任されます。
すぐそばの壬生寺境内で大砲や剣術・馬術の訓練をしていたのですが、世帯が大きくななってきたので、慶応元年に屯所を西本願寺の北集会所と太鼓楼に移しました。
本願寺西の太鼓楼
しかし、ここでも武芸・砲術訓練をするなどひどい狼藉を働いたため、西本願寺は不動堂村の油小路通木津屋橋下ルに広大な地所を購い、そこに屯所を建てて体よく追い払われます。
この新しい屯所はちょっとした大名屋敷のよな立派なものだったと云う。
明王院不動堂
本尊は不動明王で、不動堂村の名前の由来とされる。
のち不動堂町となり、昭和41年(1966)塩小路通りを境に北不動堂町・南不動堂町に分離。
新選組不動堂村屯所跡碑
新選組は慶応3年幕臣に取り立てられるが、戊辰戦争で幕府軍は敗退し、その後各地を転戦するがやがて解体に至る。
伊東甲子太郎(北辰一刀流の達人)は元治元年、藤堂平助の仲立ちで弟や門人など七名とともに新選組に入隊して参謀兼文学師範に遇されるが、勤王思想(倒幕派)の伊東と尊王攘夷(佐幕派)の新選組は思想の違いから折り合わなかった。
このため伊東は慶応3年3月20日、御陵警備任務の拝命と薩摩藩の動向探索を名目にして、同志15名とともに新撰組を離脱。御陵衛士を結成して東山高台寺の月真院に本拠を置いて高台寺党と称され、薩摩藩の支援を受けて倒幕を説いた。
しかし、新選組の局中法度書には「局ヲ脱スルヲ不許」の一条もあり、新選組と御陵衛士双方の間で何事もなく済むはずもなく、新選組最後の抗争事件となったのです。
果たせるかな、御陵衛士の伊東甲子太郎は、幕臣に取り立てられた新選組により襲撃暗殺されます。
近江屋事件で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された3日後、慶応3年11月18日(1867年12月13日)、口実をもうけ近藤勇の休息所(妾宅)に招かれた伊東甲太郎は接待を受けます。そして、酔わされた伊東は月真院への帰途、油小路通木津屋橋上ルの本光寺門前付近で新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺されたのです。(油小路事件)
伊東甲子太郎殉難之跡
伊東を酒に酔わせて暗殺に及んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警めだろうと思われます。
伊東暗殺のあと遺体は油小路七条の路上に放置されて、御陵衛士を誘い出す囮として使われます。後に遺体の収容に来た御陵衛士たちは、待ち伏せていた新選組と戦闘となり、やはり新撰組を脱して御陵衛士に加わっていた藤堂平助ら三名が戦死しています。
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