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2021年4月

2021年4月30日 (金)

別の名もあった通り 3 ー黒門通ー

 黒門通は大宮通の一筋東側を南北に通っている道で、北は元誓願寺通から南は松原通までの道でしたが、現在は南が梅小路通にまで至っています。
 その途中、丸太町通と押小路通の間は二条城、松原通下ルには妙恵会総墓所(本圀寺塔頭寺院の共同墓地)、花屋町通と七条通の間には西本願寺などがあるため黒門通は中断している。
 じつは、当ブログの過去記事(「通り名のいわれ ー黒門通ー」 2014年9月26日)と内容的には被るところもあるのですが、敢えてもう一度取り上げました。

 黒門通の名称由来について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は、「黒門通といふは太閤秀吉公聚樂城の鐵門の有し通ゆへ號す」として、この通りに豊臣秀吉の聚楽第の鉄門があったことによると云う。
 また同書には、「御池通下ル町より新シ町と云四條邊にて御太刀松通とも云佛光寺邊にて竹屋町といふ」とあり、黒門通の別称として「新シ町(あたらしまち)通」「御太刀松通」「竹屋町通」を挙げています。

新シ町通

 次の仁丹町名表示板の「新シ町」は黒門通のことで、現在であれば「下京区  錦小路通黒門西入  七軒町」としなければ、ここがどの辺りなのか判らないでしょうね。
 この別称「新シ町通」の名称由来については不明で、大正4年(1915)刊の『京都坊目誌』でも 「稱號詳ならず」としています。

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御太刀松通

 四条通下ルにある「下り松町(さがりまつちょう)」は、かつては「御太刀の松町」と称したようです。
寛文5年(1665)刊の『京雀』は、「此町に大木の松一本あり 世にいふ九郎判官よし經太刀をかけられし 今もこの松を太刀かけの松と名づくとにや」と、源義経が太刀を掛けた松があったことを町名の由来と記す。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、義経が松に太刀を掛けたことを由来とする点は 『京雀』と同じなのですが、「叉一説に堀川の御所といへりしも此邊なりとぞ御館の松といへるを書誤りて御太刀の松といひつたへ來れり」として、義経の堀川館がこの辺りにあって、その御館の松を書き間違えたとする説を併せて記しています。
 これらの伝承が、「下り松町(さがりまつちょう)」の旧称「御太刀の松町」と、通り名の旧称「御太刀松通」の名称由来となったようです。
 なお、『京都坊目誌』には、「始め助太刀の松町と呼ぶ。後ち。松枝の垂下せるにより今名に改む。」と異説を記しています。




竹屋町通

「竹屋町通」も由来は不詳で、『京都坊目誌』は黒門通仏光寺下ルの「今大黒町」について、「始め竹屋町と稱す。後ち大黒町北組南組の二に分つ。近古合併して今大黒町と稱す。杉蛭子に對し。此稱號を附せしと云ふ。」と記述しますが、竹屋町の由来には触れていません。


 次にこの通沿いのいくつかの町について、町名の由来となった伝承を挙げておきましょう。

 下長者町通上ルの「小大門町」について、『京都坊目誌』は「天正年中聚樂城外廓の通用門當町の南通下長者町にあり。故に小大門の町と呼ぶ。元祿以後南北二町に分る」とあり、豊臣秀吉の築いた聚楽第の通用門があったことが「小大門町」の由来であり、「南小大門町」と「北小大門町」の二町に分かれたのは、元禄期以降のことだとしています。

南小大門町の仁丹町名表示板
 劣化して見づらいのですが、町名は南小大門町となっています。

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 下立売通上ルの「蟹屋町」について、『京雀』は「ある人の家に蟹を飼けるに大かた馴て人の家にもゆかざりしかば奇特かりてその家名を蟹やと云けりとぞ」とあります。飼っている蟹が大変によく馴れていて他の家には行かなかった、それでその家を蟹屋と云ったというのです。
 ちなみに、この蟹屋町、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』には「蟹屋町 北組南組二町に分る」 とあるので、この頃に現在のように北蟹屋町と南蟹屋町に別れたことが判ります。

南蟹屋町の仁丹町名表示板

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 錦小路通下ルの「藤岡町」について、『京町鑑』は「古此町に藤岡といひしもの染物の上手にて其頃藤岡染とて大にはやりしと也終に小名と成たり」としている。




2021年4月23日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 55

中京区の路地です

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2021年4月16日 (金)

別の名もあった通り 2 ー大黒町通ー

 大黒町通は、大和大路通の一筋西側を南北に通っている道で、北は松原通から南は七条通に至る道です。
 『京都坊目誌』には、大黒町通の名称由来を「此街壽延寺に大黒天の像を安置す。故に名く。」として、大黒町通松原下ル北御門町にある寿延寺に祀られた大黒天像に因むとしています。

寿延寺

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 『京町鑑』などの地誌によると、その大黒町通には次のように区間によって別の呼称があったようなのです。

大黒町通

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 『京町鑑』では「骨屋町通」についての記述の中で、「但此通五條通より北は大黒町なり」とあるように、五条通から北の松原通までの間を大黒町通と称していたようです。

骨屋町通
 上掲『京町鑑』に、「◯骨屋町通 △此通の南に扇子の骨を製作するもの多く住す故に號す」とし、「⚫︎但此通五條通より北は大黒町なり扨五條下ルより南は大佛正面まで」と記しています。
 つまり、五条通から南の正面通までを骨屋町通と称したのです。この一帯に扇子の骨を製作する者が集住したことが名称の由来だとする。

袋町通
 「袋町」の仁丹町名表示板(写真提供は京都仁丹樂會)

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 『京都坊目誌』には、「大黒町通 (中略)、五條以南にて、袋町通又耳塚通とも称す。正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」とあります。
 なお、この「袋町通」は、大黒町通五条下ルに「袋町」が所在することが名称の由来。なお、往時の袋町へは南から北に向かって入るが、その先で音羽川の流れに阻まれて五条通まで通じていなかったため、袋小路となっていたことから生じた呼称だとする。

浄雲寺
 寺門の正面奥に見える本堂の裏手で音羽川は流路を変えていた。

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音羽川跡の一部(前方の人家の間の細い道)

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本町公園から流路跡の音羽川北通を望む

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【註】音羽川は、現在では流路のほとんどが暗渠になっているため地図に現れていません。近世末の地図や『京都坊目誌』によると、清水寺奥の院にある「音羽の滝」に発して南西に流れ、五条橋東六町目を経て馬町通(現・渋谷通)の北裏沿いを西に流れ、常磐町・鐘鋳町・芳野町・石垣町・袋町の町々の北側を流れて、本町一丁目の東側にある浄雲寺に行き当たると、ここから南に流れを変え本町三丁目と四丁目の境界の辺り(今の本町公園)から通称音羽川北通りを西に向かい鴨川に流入していたようです。

耳塚通
 『京町鑑』は、「此通北は大佛正面通より南は七條通迄」としている。
 耳塚通は大黒町通の正面から南をいうが、通り名の由来は正面通に耳塚が所在するため。

耳 塚

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【註】耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した時(文禄・慶長の役)、討ち取った朝鮮人の耳や鼻を集めて、持ち帰りここに埋めたという。

塗師屋町通
 耳塚通は塗師屋町通ともいう

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 『京都坊目誌』には、耳塚以南については耳塚通りの呼称のほかに、「正面以南にて塗師屋町通とも云へり。」として、正面通から南つまり耳塚以南を塗師屋町通とも称したとしている。
 髹(きゅう)塗り、つまり漆塗りを業とする者が住んだことからこのように呼んだという。




2021年4月 9日 (金)

春の息吹 2

ユキヤナギ

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やまぶき

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錦木の新芽

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たんぽぽ

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2021年4月 2日 (金)

春の息吹 1

さくら

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シャガ

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モミジの新芽

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煌めき

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