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2021年6月

2021年6月25日 (金)

別の名もあった通り 4 ー新町通ー

 新町通について、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では、「△ 此通 古上京にて町口と云 下京にて町尻といひし也」。そして、通り名の由来を「此通あらたに建つヾきしゆへ俗に新町とよぶ」と記し、「⚫️ 此通北はくらま口より一町上より下は七條迄」通っている道だとしています。
 もっとも、現在の新町通は途中で途切れながらも、北山通の北の玄以通から南は久世橋通の辺りまで通じているようです。

 先の『京町鑑』にある新町通の起りについて、いくつかの資料に当たって当時の様子を探ってみました。

 平安時代の市場というのは官営でした。また、物の生産についても「諸司(多くの役所)」に属していた諸職人や商人によって行われていたようです。
 これら職人たちの職場であり住居でもある多くの「厨町(町)」は、織部町・大舎人町・縫殿町・内膳町・木工町などその多くが、大内裏(宮城)の周囲ことに東側に存在していました。
 そうした厨町の中でも「修理職町(しゅりしきまち)」は、内裏(皇居)の造営と修理事業の一切に当たる役人と諸職人が集住する、規模の大きい代表的な「町」でした。
 この修理職町は、南北が近衛大路(現・出水通)と中御門大路(現・椹木町通)の間、東西が室町小路(現・室町通)と西洞院大路(現・西洞院通)というもので四町四方の広さがあり、平安京の都市区画である条坊制でいうと、左京一条三坊二保のうちでも、三町〜六町までの4町分を占める大きな「町」でした。(その西半分に当たるところは、現在では京都府庁・京都第二赤十字病院となっています。)

 そして、この修理職町の中央を南北に貫いて通っていたのが、「町通(まちどおり」と言われた通りで、のちの「新町通」でした。
 この「町通」という呼称は、修理職町を貫いて通っていることから来ているようなのです。
 ちなみに、『京町鑑』にあるように、修理職町の町域北側を「町口」、修理職町の町域南側を「町尻」と呼び習わしていたようです。したがって、「町通」は「町口」の北の「町口小路」と、「町尻」の南の「町尻小路」という二つの名称を持っていたようです。

 ところで、平安前期も末の9世紀くらいになると、朝廷の権力が弱まってきて官衙が縮小されていき、そこに属していた諸職人・工人・商人などの手工業生産に携わっていた人々は、役所の束縛から解放されるようになります。
 こうした職人たちの多くは、その技術を生かして市中の特に「町通(新町通)」沿いに居所兼仕事場・店舗を構えて、独自に商業活動を行なっていくようになります。そしてこの町通は、11世紀の頃からは官営の東市・西市にとって代わり、平安京の経済の中心地となって活況を呈したようです。
 それは、とりわけ町通と東西にとおる通りが交差する地域の、三条町・六角町・錦小路町・四条町などを中心に商業が発展し、現在もそれらは町名となって残っています。
 こうして、新町通の前身である「町通」が、平安京の経済活動の中心となる主要な通りとなっていったのです。

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上の写真は現代の「六角町」界隈です。
 右手は、近世の松坂屋(後の三井呉服店京都店)の店鋪跡で、今は三井ガーデンホテル京都別邸となっている。

以下は、思い立っての追記です。
 この記事は午前中にアップしたばかりなのですが、地誌書を眺めていてちょっと素通りするわけにもいかないな〜と思ったので、簡単に記しておきます。
 それは、新町通の名前の由来についてなのです。
 『京羽二重』には、「町尻通 新町通と云  いにしえ町尻殿と云し公家二條の北に住給ひし故  町尻通と云しとぞ」とある。
 『京都坊目誌』では、「詳ならず  古へ町尻殿あり、町尻町口の稱あり」と記していて、『京町鑑』と『京羽二重』を中途半端に折衷したかのようなことが書かれていました。





2021年6月18日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 58

東山区にて

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2021年6月11日 (金)

鴨 川

 鴨川といえば京都の顔であり象徴とも言える川なのですが、その鴨川は時代によりいろいろの顔を持っていたようです。

 昔の鴨川は河床が広く、そこを網目状に流れる水量は普段は少ないのですが、大雨の時にはしばしば洪水を引き起こしたようです。『平家物語』に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」という白河院の有名な言葉もあるように、鴨川の流れは思うままにはならないものの一つだったのです。

 古代の鴨河原は禊祓いの場とされ、また葬送の地としても利用されたようです。平安末期以後には合戦の場、処刑・梟首の場となっていました。一方、平安末期から鎌倉初期になると、鴨川を東側に越えた岡崎や六波羅が政治の中心となり発展しました。

 そして室町期以降になると鴨河原は、見せ物や遊芸が催されて群衆の集まる広場となっていきます。このような催しの広場として、五条河原・四条河原・糺河原などがありました。

 この河原というのは中洲・中島のことで、草木の茂るところや淵もあったようです。

 その鴨川は、治水のため寛文10年に「寛文新堤」が築かれると、それまで豊臣秀吉の築いた御土居から外へ、鴨川西岸までを洛中に含めるようになります。さらには鴨河原の東側にも町並ができて市街化されていきます。

現代の南座
 「まねき」に坂田藤十郎・市川團十郎・片岡仁左衛門・市川左團次などの名前が見えます。
 (下の図絵とともに写真をクリックすると拡大できます)
 元和期には四条通りを挟んで7ヶ所の芝居小屋が許可されてていて、京の一大興行地として賑わったという。

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 そこには、芝居小屋・茶屋・料理屋・旅籠などが建ち並んで遊興・歓楽の地が形成されていきました。そうして、そこが京の人々の憩い・遊興の場として評判になると、諸国からの旅人たちも足を運ぶようになりました。

四條河原夕涼之躰 (安永9年刊『都名所圖絵』より)
 河原の手前(西側)には「西石垣(さいせき)」、川向こう(東側)には右手(南側)から「宮川町」「どんぐりの辻」「東石垣(とうせき)」「芝居小屋(南座・北座など)」「蟹の辻子」「仲源寺目疾地蔵」などが、また河原には多くの人々も描かれている。

 四條河原の夕涼みは、祇園祭の期間のうち旧暦の6月7日から同18日までの間、期間限定で催される「日本一の夕涼み」といわれた盛大な恒例行事だったようです。

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次に諸本の記述から、その繁盛ぶりや深夜まで賑わう様子を引いておきましょう。

 寛文5年(1665)刊『京雀』には、樵木町通(今の木屋町通)の四条から、「中島より東のかたを見れば  四條川原いろ〻見物の芝居あり その東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて 座しきには客の絶る時なし 祇園殿西の門只一目にみゆ」と繁栄ぶりを記している。

 延宝5年(1677)刊『日次記事(ひなみきじ)』では、「凡そ今夜より十八日夜に至る、四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設け、而して良賎楽しむ。東西の茶店、提灯を張り、行燈を設け、あたかも白昼のごとし」

 また、芭蕉の死後5年、元禄11年(1698)に門人の風國がまとめた『泊船集』にも、「四條の川原すゞみとて 夕月夜のころより有明過る頃まで  川中に床を並べて 夜すがら酒のみものくひあそぶ をんなはおびのむすびめいかめしく をとこは羽織ながう着なして 法師老人どもに交り 桶やかじやの弟子子まで ときめきてうたひのゝしる さすがに都のけしきなるべし」と深夜まで賑わう様子を記しています。




2021年6月 4日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 57

中京区にて

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