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2021年6月11日 (金)

鴨 川

 鴨川といえば京都の顔であり象徴とも言える川なのですが、その鴨川は時代によりいろいろの顔を持っていたようです。

 昔の鴨川は河床が広く、そこを網目状に流れる水量は普段は少ないのですが、大雨の時にはしばしば洪水を引き起こしたようです。『平家物語』に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」という白河院の有名な言葉もあるように、鴨川の流れは思うままにはならないものの一つだったのです。

 古代の鴨河原は禊祓いの場とされ、また葬送の地としても利用されたようです。平安末期以後には合戦の場、処刑・梟首の場となっていました。一方、平安末期から鎌倉初期になると、鴨川を東側に越えた岡崎や六波羅が政治の中心となり発展しました。

 そして室町期以降になると鴨河原は、見せ物や遊芸が催されて群衆の集まる広場となっていきます。このような催しの広場として、五条河原・四条河原・糺河原などがありました。

 この河原というのは中洲・中島のことで、草木の茂るところや淵もあったようです。

 その鴨川は、治水のため寛文10年に「寛文新堤」が築かれると、それまで豊臣秀吉の築いた御土居から外へ、鴨川西岸までを洛中に含めるようになります。さらには鴨河原の東側にも町並ができて市街化されていきます。

現代の南座
 「まねき」に坂田藤十郎・市川團十郎・片岡仁左衛門・市川左團次などの名前が見えます。
 (下の図絵とともに写真をクリックすると拡大できます)
 元和期には四条通りを挟んで7ヶ所の芝居小屋が許可されてていて、京の一大興行地として賑わったという。

Photo_20210514165901


 そこには、芝居小屋・茶屋・料理屋・旅籠などが建ち並んで遊興・歓楽の地が形成されていきました。そうして、そこが京の人々の憩い・遊興の場として評判になると、諸国からの旅人たちも足を運ぶようになりました。

四條河原夕涼之躰 (安永9年刊『都名所圖絵』より)
 河原の手前(西側)には「西石垣(さいせき)」、川向こう(東側)には右手(南側)から「宮川町」「どんぐりの辻」「東石垣(とうせき)」「芝居小屋(南座・北座など)」「蟹の辻子」「仲源寺目疾地蔵」などが、また河原には多くの人々も描かれている。

 四條河原の夕涼みは、祇園祭の期間のうち旧暦の6月7日から同18日までの間、期間限定で催される「日本一の夕涼み」といわれた盛大な恒例行事だったようです。

Photo_20210514170401


次に諸本の記述から、その繁盛ぶりや深夜まで賑わう様子を引いておきましょう。

 寛文5年(1665)刊『京雀』には、樵木町通(今の木屋町通)の四条から、「中島より東のかたを見れば  四條川原いろ〻見物の芝居あり その東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて 座しきには客の絶る時なし 祇園殿西の門只一目にみゆ」と繁栄ぶりを記している。

 延宝5年(1677)刊『日次記事(ひなみきじ)』では、「凡そ今夜より十八日夜に至る、四条河原の水陸、寸地を漏らさず床を並べ、席を設け、而して良賎楽しむ。東西の茶店、提灯を張り、行燈を設け、あたかも白昼のごとし」

 また、芭蕉の死後5年、元禄11年(1698)に門人の風國がまとめた『泊船集』にも、「四條の川原すゞみとて 夕月夜のころより有明過る頃まで  川中に床を並べて 夜すがら酒のみものくひあそぶ をんなはおびのむすびめいかめしく をとこは羽織ながう着なして 法師老人どもに交り 桶やかじやの弟子子まで ときめきてうたひのゝしる さすがに都のけしきなるべし」と深夜まで賑わう様子を記しています。




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