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2021年7月

2021年7月30日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 59

東山区で通りすがりに見かけた路地

 路地の入り口に格子戸があるのはしばしば見かけますが、閉められているのは珍しいです。

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2021年7月23日 (金)

祇園祭のこと 3

 前回の記事で記しましたが、明応9年(1500)の祇園祭復興に尽力した松田頼亮の記録『祇園会山鉾事』の中の、「祇園会山ほくの次第」には応仁の乱以前の山鉾について、前祭・後祭を合わせて58基の名称と所在地が記されています。
 また、同じく「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、応仁の乱以後に再興された山鉾36基の名称と所在地が記されています。

 どちらの記録も、山鉾の所在地を町名(地域名称)による表示ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように通り(道路)と通り(道路)で区切られた区間=地点で表示しています。
 そのいくつかを抜書きしてみます。

「祇園会山ほくの次第」(応仁の乱の前)では
長刀ほく(現在の長刀鉾)    四条東洞院
かんこくほく(現在の函谷鉾)  四条烏丸と室町間
かつら男ほく(現在の月鉾)   四条室町と町間(「町」=現在の新町通)

「祇園会山鉾次第以鬮定之」(応仁の乱のあと)では
ナキナタホコ(現在の長刀鉾)  四条東洞院とカラス丸とノ間也
かんこくほく(現在の函谷鉾)  (*この頃は未復興、天保10年(1839)に復興)
かつら男山 (現在の月鉾)   四条町と室町ノ間也  (*乱後の復興では財政的な事情からか、「鉾」ではなく「山」として復興している) 

 このように、山鉾の所在地を町名ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように道路と道路で区切られた区間で表示しているということは、つまり、中世のこの時期にはまだ地域の名称としての「町名」が定着していなかったのだろうと考えられます。
 近世になって徐々に町名が定着していき、おおよそ寛永期以後になると古絵図に鉾の名称を冠した町名が見られるようになります。(ex.寛永14年(1637)刊の洛中絵図など)
 もっとも、この頃の町名には別名・異名もあって、町名としては一定していなかったようです。

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 ところで、他の鉾町を見ていて、素朴な疑問が湧きました。
 同じ貞享期の刊行ですが、貞享3年刊『京大繪圖』は山鉾の所在地が町名で書かれていますが、貞享2年(1685)刊の地誌『京羽二重』では、なぜか依然として町名表示ではなく地点表示で記しているのです。
 これが、宝暦12年(1762)刊の地誌『京町鑑』になって、ようやく町名で表示されています。

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傘 鉾(元は「笠鉾」)
 『京大繪圖』では「おしろい丁(白粉屋町)」、『京羽二重』では「四條通西洞院西へ入」、『京町鑑』に至り「傘鉾町 一名◯白粉屋町とも云』と現町名になっています。
 ちなみに、傘鉾は二基あります。四条通のこの傘鉾を四条傘鉾、綾小路の善長寺町から出す傘鉾は綾傘鉾と呼ぶ。

郭巨山(元は「釜掘山」)
 『京大繪圖』では「可ハのた奈丁(革棚町)」、『京羽二重』では「四條通新町西へ入町」、『京町鑑』に至って「郭巨山町 一名◯革棚町とも云』と現町名になっています。




2021年7月16日 (金)

祇園祭のこと 2

 平安時代には、自然災害の発生や疫病が流行した時その原因は、政争に敗れて無念な死を遂げた人々が怨霊となって祟りを為すからだと考えられていました。そこで、怨霊を鎮め慰めるために御霊会(ごりょうえ)が開かれました。
 貞観5年(863)5月20日、平安宮(平安京の宮城)の南側にある神泉苑で修されたのが、御霊会の始まりとされています。
 この神泉苑、今でこそ規模が狭く小さなものになっていますが、桓武天皇が平安宮付属の苑池として造営された当時の広さは、平安京図によれば東西が大宮大路と壬生大路の間(約255m)、南北が二条大路と三條大路の間(約513m)という広大な敷地でした。

 そして、貞観11年(869)の御霊会で、66本の矛(ほこ)を建てて祀ったのが祇園会の起源だとされ、この66本の矛というは、当時の日本の国の数である66ヶ国に見立てたものと言われます。この矛が山鉾の始まりとされ、現在も神社の祭礼では行列の先頭で掲げ差し上げられる剣鉾のようなもので、悪霊を払う意味があるとされるものです。

剣 鉾(粟田祭)
 祇園祭の鉾の原型とされ、行列での鉾差しは見ものです。

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 剣鉾は棹の先に両刃の剣を着け、その下には鈴や吹き散りなど飾り物を吊るした祭具で、人が一人で担ぎ差し上げることができるものです。しかし、祇園祭の鉾の場合はいつの頃からなのか確かなことは分かっていませんが、大きなものになって車に乗せて人が引く山車へと変わり、さらに、華やかな飾り物を飾ったものになりました。
 南北朝期の公卿である三條公忠がその日記『後愚昧記』に、「高大鉾顚倒し老尼一人圧死す」と記した事件が起こっています。これが永和2年(1376)のことですから、既にこの頃には人を圧死させるほどに鉾は大型のものになっていたのです。

長刀鉾の巡行(『都名所図會』から)

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 史家によると、祇園祭で山鉾の存在が見られるのは鎌倉末期からで、一気に花開くのは南北朝・室町期のことのようです。
 ところが、応仁元年〜文明9年(1467〜77)の足かけ11年にわたる応仁・文明の乱では、京の町の大半が多くの文化財とともに壊滅的な破壊を受けました。この応仁・文明の乱は、次第に洛外へと拡大していき戦国動乱の時代の始まりとなりました。
 山鉾も戦乱で焼失したり破損したため、そののち33年もの長い間にわたって祇園会は中断されました。
 応仁の乱ののち、明応9年(1500)に祇園会の復興に尽力した幕府役人の松田頼亮が表したとされる、『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、戦乱後に再興された山鉾の名称・所在地が記されています。
 また、同じく『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山ほくの次第」には、応仁の乱以前の山鉾の名称・所在地が記されています。




2021年7月 9日 (金)

祇園祭のこと 1

 祇園祭は八坂神社(祇園社)の祭礼で、平安時代の御霊会が起源とされる。
 祇園祭は7月1日の切符入りに始まって、31日の八坂神社摂社疫神社の夏越祭まで、1ヶ月もの長い期間にわたって多くの祭事が行われます。
 そのハイライトはやはり、17日(前祭)と24日(後祭)の山鉾巡行と宵山であり、大勢の人々が訪れて京のまちは祭りの熱気に包まれます。

函谷鉾

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 また山鉾巡行の他にも、なかなかの見ものがあります。17日前祭の夕刻から始まる神幸祭は、祇園石段下で3基の御神輿(中御座・東御座・西御座)を頭上高く差し上げる勇壮な差し回しのあと、四条寺町の御旅所へ渡御され、24日の後祭山鉾巡行のあとの還幸祭では、御旅所から八坂神社まで神輿がもどられるのです。

 ところが、現在のところ全く治まる気配のないコロナ禍のため、昨年に続いて今年の山鉾巡行も中止されることが決まっています。
 けれども、こうした時勢にあって、巡行は中止となっても「縄がらみ」といわれる鉾建ての技術継承や懸装品保全のためには建てるべきとする保存会と、巡行を行わない以上は立てる理由がないとする保存会とで意見が割れたようです。
 結果は、前祭と後祭合わせて33基ある山鉾のうち、半数余りに当たる18基の山鉾が立てられるようです。

 ちなみに、一昨年(2019年)の祇園祭で巡行した山鉾は、前祭(さきまつり)が23基、後祭(あとまつり)には10基の計33基でした。
 なお、文政9(1826)年の巡行で大雨にあい、懸装品を汚損したことから翌年から参加しなくなり、休山となっていた鷹山が約200年振りに復元されて、明2022年から後祭の巡航に参加することになるようです。この鷹山も応仁の乱以前から巡行していた曳山で、「くじ取らず」の山だったそうです。

月 鉾

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 今年も2年続きで山鉾の巡行は中止となったのですが、先ごろ7月2日に山鉾の巡行でその順番を決める「くじ取り式」が京都市役所の市議会議場で行われました。

 古来「くじ取らず」と呼んで、くじを引かずに巡行の順番が決まっている山鉾があります。
 この「くじ取らず」の山鉾は、前祭では先頭の長刀鉾・5番目の函谷鉾・21番目の放下鉾・22番目の岩戸山・しんがりの23番目が船鉾。後祭では1番目の橋弁慶山・2番目の北観音山・6番目の南観音山・しんがり10番目大船鉾です。

 現在では「くじ取り式」と言われている「鬮改め(くじあらため)」は、定められたのが応仁の乱以後に初めて復興した時、明応9年(1500)のことでだそうです。
 『祇園会山鉾次第以鬮定之』(『祇園会山鉾事』)によると、行列の順序をめぐって町人の間で論争が起こったため、幕府役人松田頼亮の屋敷で鬮取りを行って巡行の順番を決めたのが初めとされる。
 平安時代以来の来歴をもつとされる長刀鉾が、巡行の先頭を進むのは応仁の乱以前からの慣行とされていて、現在も変わらずに引き継がれています。

     *****************

 回を改めて近いうちに、祇園祭の起源や山鉾の来歴といったものを取り上げてみたいと思っています。

 





2021年7月 2日 (金)

形(かたち・フォルム) その5

下京区の某医院エントランス

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八坂庚申堂の三猿飾り瓦

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八坂庚申堂の括り猿

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上賀茂神社  細殿前の砂盛(立砂とも)

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