祇園祭のこと 2
平安時代には、自然災害の発生や疫病が流行した時その原因は、政争に敗れて無念な死を遂げた人々が怨霊となって祟りを為すからだと考えられていました。そこで、怨霊を鎮め慰めるために御霊会(ごりょうえ)が開かれました。
貞観5年(863)5月20日、平安宮(平安京の宮城)の南側にある神泉苑で修されたのが、御霊会の始まりとされています。
この神泉苑、今でこそ規模が狭く小さなものになっていますが、桓武天皇が平安宮付属の苑池として造営された当時の広さは、平安京図によれば東西が大宮大路と壬生大路の間(約255m)、南北が二条大路と三條大路の間(約513m)という広大な敷地でした。
そして、貞観11年(869)の御霊会で、66本の矛(ほこ)を建てて祀ったのが祇園会の起源だとされ、この66本の矛というは、当時の日本の国の数である66ヶ国に見立てたものと言われます。この矛が山鉾の始まりとされ、現在も神社の祭礼では行列の先頭で掲げ差し上げられる剣鉾のようなもので、悪霊を払う意味があるとされるものです。
剣 鉾(粟田祭)
祇園祭の鉾の原型とされ、行列での鉾差しは見ものです。
剣鉾は棹の先に両刃の剣を着け、その下には鈴や吹き散りなど飾り物を吊るした祭具で、人が一人で担ぎ差し上げることができるものです。しかし、祇園祭の鉾の場合はいつの頃からなのか確かなことは分かっていませんが、大きなものになって車に乗せて人が引く山車へと変わり、さらに、華やかな飾り物を飾ったものになりました。
南北朝期の公卿である三條公忠がその日記『後愚昧記』に、「高大鉾顚倒し老尼一人圧死す」と記した事件が起こっています。これが永和2年(1376)のことですから、既にこの頃には人を圧死させるほどに鉾は大型のものになっていたのです。
長刀鉾の巡行(『都名所図會』から)
史家によると、祇園祭で山鉾の存在が見られるのは鎌倉末期からで、一気に花開くのは南北朝・室町期のことのようです。
ところが、応仁元年〜文明9年(1467〜77)の足かけ11年にわたる応仁・文明の乱では、京の町の大半が多くの文化財とともに壊滅的な破壊を受けました。この応仁・文明の乱は、次第に洛外へと拡大していき戦国動乱の時代の始まりとなりました。
山鉾も戦乱で焼失したり破損したため、そののち33年もの長い間にわたって祇園会は中断されました。
応仁の乱ののち、明応9年(1500)に祇園会の復興に尽力した幕府役人の松田頼亮が表したとされる、『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、戦乱後に再興された山鉾の名称・所在地が記されています。
また、同じく『祇園会山鉾事』中の記録「祇園会山ほくの次第」には、応仁の乱以前の山鉾の名称・所在地が記されています。
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