祇園祭のこと 3
前回の記事で記しましたが、明応9年(1500)の祇園祭復興に尽力した松田頼亮の記録『祇園会山鉾事』の中の、「祇園会山ほくの次第」には応仁の乱以前の山鉾について、前祭・後祭を合わせて58基の名称と所在地が記されています。
また、同じく「祇園会山鉾次第以鬮定之」には、応仁の乱以後に再興された山鉾36基の名称と所在地が記されています。
どちらの記録も、山鉾の所在地を町名(地域名称)による表示ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように通り(道路)と通り(道路)で区切られた区間=地点で表示しています。
そのいくつかを抜書きしてみます。
「祇園会山ほくの次第」(応仁の乱の前)では、
長刀ほく(現在の長刀鉾) 四条東洞院
かんこくほく(現在の函谷鉾) 四条烏丸と室町間
かつら男ほく(現在の月鉾) 四条室町と町間(「町」=現在の新町通)
「祇園会山鉾次第以鬮定之」(応仁の乱のあと)では、
ナキナタホコ(現在の長刀鉾) 四条東洞院とカラス丸とノ間也
かんこくほく(現在の函谷鉾) (*この頃は未復興、天保10年(1839)に復興)
かつら男山 (現在の月鉾) 四条町と室町ノ間也 (*乱後の復興では財政的な事情からか、「鉾」ではなく「山」として復興している)
このように、山鉾の所在地を町名ではなく、「◯◯と◯◯の間」というように道路と道路で区切られた区間で表示しているということは、つまり、中世のこの時期にはまだ地域の名称としての「町名」が定着していなかったのだろうと考えられます。
近世になって徐々に町名が定着していき、おおよそ寛永期以後になると古絵図に鉾の名称を冠した町名が見られるようになります。(ex.寛永14年(1637)刊の洛中絵図など)
もっとも、この頃の町名には別名・異名もあって、町名としては一定していなかったようです。
ところで、他の鉾町を見ていて、素朴な疑問が湧きました。
同じ貞享期の刊行ですが、貞享3年刊『京大繪圖』は山鉾の所在地が町名で書かれていますが、貞享2年(1685)刊の地誌『京羽二重』では、なぜか依然として町名表示ではなく地点表示で記しているのです。
これが、宝暦12年(1762)刊の地誌『京町鑑』になって、ようやく町名で表示されています。
傘 鉾(元は「笠鉾」)
『京大繪圖』では「おしろい丁(白粉屋町)」、『京羽二重』では「四條通西洞院西へ入」、『京町鑑』に至り「傘鉾町 一名◯白粉屋町とも云』と現町名になっています。
ちなみに、傘鉾は二基あります。四条通のこの傘鉾を四条傘鉾、綾小路の善長寺町から出す傘鉾は綾傘鉾と呼ぶ。
郭巨山(元は「釜掘山」)
『京大繪圖』では「可ハのた奈丁(革棚町)」、『京羽二重』では「四條通新町西へ入町」、『京町鑑』に至って「郭巨山町 一名◯革棚町とも云』と現町名になっています。
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