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2021年10月15日 (金)

怖〜いお話 1 ー早良親王(崇道天皇)ー

崇道神社

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 早良親王は桓武天皇の実弟で、次に皇位を継ぐこととなる皇太弟の地位にありました。
 兄の桓武天皇は、東大寺をはじめとする奈良仏教寺院が政治に影響力を及ぼすのを排除するため、平城京から長岡京に都を遷すことにします。延暦3年(784)のことでした。
 ところが、長岡京造営の最中であった延暦4年(785)に、長岡京造都の責任者である藤原種継が何者かに暗殺されるという事件が起きました。

 このとき、早良親王は桓武天皇が忌避する奈良仏教界の最高の地位にあったので、桓武は親王を皇位継承者の地位から外して、自身の第一皇子である安殿(のちの平城天皇)を立太子させるとともに、早良親王に種継暗殺に連座したとの疑いをかけて廃嫡したうえ乙訓寺に幽閉しました。
 早良親王は、無実を訴えるため絶食して10日余り、淡路国に配流される途中、35歳で憤死しました。屍は淡路に送られて墓が造られました。

 ちなみに、親王の死には次のような説があるようです。
   抗議のための絶食によって死亡したとする説
   飲食物を与えず餓死させて処刑したとする説

 種継暗殺事件のあと長岡京では疫病が流行して、安殿親王の発病、桓武天皇夫人の藤原旅子・皇后の藤原乙牟漏・女御の坂上又子、桓武天皇と早良親王の生母である高野新笠など近親者が次々と病死し、桂川の洪水など災害も相次ぎました。
 これらは早良親王の怨霊の祟りであるとの噂が広がり、幾度か鎮魂のための儀式が執り行われたのですが、祟りがとける兆しは見られませんでした。
 このため、桓武天皇はまだ完成をみていなかった長岡京を捨てて、延暦13年(794)新たな都の平安京を造営します。
 そして、桓武天皇は延暦19年(800)早良親王に「崇道天皇」の追諡を贈って名誉の回復を図り、延暦24年(805)には墓を現在の八嶋陵(いまの奈良市八島町)に改葬します。
 さらに、都の北東の鬼門にあたる高野(現・左京区上高野西明寺山)に崇道神社を創建して怨霊を鎮めようとしました。社伝によると貞観年間(859年~877年)のことでした。
 藤森神社・上御霊神社・下御霊神社などにも崇道天皇を祀っていますが、いずれも相殿(あいでん)といって社殿に二柱以上の神を合祀しているのですが、この崇道神社は早良親王のみを祭神としています。




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