怖〜いお話 2 ー崇徳天皇ー
先頃は、桓武天皇の弟である早良親王は朝廷での権力をめぐる陰謀に巻き込まれて、淡路島へ流刑となったこと。親王は抗議のために食事を摂ることを拒否して自殺に追い込まれたとも、また、食事を与えられず死に追い込まれたとも言われたこと。
そして、その後たびたび発生した疫病の流行や天変地異は、早良親王の怨霊の祟りだと噂されたことを記事にしました。
今回もまた、朝廷における権力闘争の末、流罪となって非業の死を遂げた崇徳天皇を取り上げました。
崇徳天皇御廟
この御廟は、祇園町南側の祇園甲部歌舞練場裏手(通称万寿小路の西側)にあります。
『京都坊目誌』はこの廟のことを、「崇徳帝廟 阿波内侍 尼となり 佛種と號す。長寛二年八月二十四日 崇徳上皇讃岐國志度の松山皷か岡の行宮に崩ず。佛種尼悲哀に堪えず 帝の遺髪を請い 此地に埋め廟堂を營み 聖蹟を弔ひし所」と記している。
平安時代の後期になると、退位した天皇が上皇となって実権を握り、引き続いて朝廷の政治を司る「院政」が敷かれました。
崇徳帝は鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれ、5歳で天皇に即位しました。その曽祖父にあたる白河法皇が後ろ盾となったことから、崇徳天皇は白河法皇と藤原璋子の不倫により生まれた子だとの噂が流されました。このため、崇徳天皇は父の鳥羽帝から疎まれ続けました。
それがもとで、白河法皇の死後まだ23歳の崇徳天皇は、父の鳥羽上皇に排斥されて異母弟である近衛天皇に譲位させられました。しかし、その近衛天皇が病死すると鳥羽上皇は同じく崇徳の同母弟である後白河天皇に即位させ、崇徳は新院と呼ばれた。
こうして、崇徳は息子に即位させて自身が上皇として院政にあたるという望みを、父である法皇となった鳥羽上皇によって潰されてしまったのです。
これを崇徳院が不満に思わないはずはありません。というよりも激怒したことでしょう。
鳥羽法皇が死去すると摂関家の内紛も絡んで、朝廷は崇徳院方と後白河天皇方に分かれて「保元の乱」が勃発します。その結果は後鳥羽天皇方が勝利して、崇徳院は讃岐へ配流されました。
崇徳は出家して心を安らかに保つため、3年の間「五部大乗教」の写経を続けました。そして、経典の写経が完成すると戦死者の慰霊のために、朝廷に納めようとしました。ところが、朝廷はその経典の受け取りを拒んだことから、崇徳院はひたすら朝廷を恨み呪う日々を過ごして、46歳で病死しました。
その頃、都では天災・大火・疫病の流行が続いて、これらは崇徳院の怨霊のなすところだとの噂が広まりました。そのため、朝廷は崇徳院に「上皇」の諡号を贈って、「保元の乱」の戦場跡である洛東白河の地(現在の聖護院)に崇徳院廟を建てて冥福を祈ったとされる。
黒川道祐『東北歴覧之記』には、「聖護院ノ門前ヲ過、此ノ森ノ東ニ堆キ所アリ、(略)、森ノ内ニ兩社アリ、(略)、今一社ハ、崇徳院ノ廟ト云へリ、古ヘ大炊御門ノ東ニ、天皇ノ廟ヲ建テ、之ヲ尊崇シタトツタワル、然ルトキハ此所ニ符号セリ」とあります。
聖護院の南に聖護院の森があって、その森の中に崇徳院の廟はあったという。
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