天明の大火(団栗焼け)
京都は平安京以来、一千年にわたって都であったため地震・風害・洪水などの気象災害や火災など、多くの災害の記録が残されているようです。
近世(江戸時代)の京都では、ほぼ80年ごとに大火事が発生していて、宝永の大火・天明の大火(団栗焼け・申年の大火とも)・元治の大火(どんどん焼け・鉄砲焼けとも)の三つは「京都三大大火」と呼ばれます。また、この間には、西陣焼けとも呼ばれる享保の大火も発生しています。
今回は、天明の大火を見てみます。ただ、その被害状況は当然のことながら史料により数字が異なっていますが、この記事では『京都坊目誌』の挙げているものを記しています。
これらの火災のうち天明の大火は、京都で発生した大火災の中でも火災規模としては、空前絶後ともいえる最大のものでした。
天明8年(1788)1月30日、団栗辻子新道の角の民家の失火が元で、火は強風に煽られて加茂川の西へも超えて、当時の京都の市街地のほぼ全域を焼き尽くしたのです。世間ではこの火事を天明大火と称し、また出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。
天明大火犠牲者の供養塔
清浄華院(上京区寺町通広小路上ル)
供養のための五輪塔そばの石碑には、「焼亡横死百五十人之墓」とあります。
清浄華院のホームページによると、死者150人というのは幕府の公式見解で実際にはもっと多かったものと考えられ、清浄華院の記録『日鑑』には死者2600人という風聞が記録されているそうです。
円通寺(上京区東三本木通丸太町上ル)
「為焼亡横死」(しょうぼうおうしのため)と刻まれた犠牲者を供養する石碑が建てられています。
被害状況は史料によって異同がありますが、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「天明八年正月晦日河東團栗辻子火あり、暴風頻に發り火焔京中に漲る、皇居、仙院、二條城本丸、所司廳以下を延焼す。此災や東は大和大路、西は七本松、南は七條、北は安居院に至り、公卿の邸宅百三十、武家の第六十、神社三十七、寺院二百一、市町千四百二十四、民家三萬六千七百九十七戸、死者二千六百餘人の多きに至る。應仁以來の災害にして、世に天明大火と稱す。」
『京都坊目誌』また、次のようにも記しています。
「天明大火 寳永大火に比し、更に激甚の被害にして、應仁以來の大火とす、(略)。 天明八年正月二十九日夜、亥ノ刻艮位より狂風起り丑ノ刻に至り、強〻強烈にして寅ノ刻下刻より寅卯の風位、猛威を極め偶〻行路の人馬を倒す程也。晦日寅刻賀茂川の東、宮川町團栗辻子新道の角、兩替商某方より失火し、忽ち東石垣町、宮川町を焼き、五條橋に至る。暴風更に加はり (略)。二日卯の刻にして熄む。」
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