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2021年11月

2021年11月26日 (金)

六地蔵巡り

六地蔵巡りの一所、上善寺

Photo_20211126112001
 地蔵信仰は奈良時代からあったもののようで、平安時代には疫病や厄は街道から村や町に入り込むと考えられた。これらの災厄を防ぎ、旅をする人々の安全を願って地蔵を祀ったようです。
 また地蔵信仰は、悪霊や疫病が侵入するのを防ぐために、峠や街道の分かれ道(追分)、村や町の入り口の道端に祀られた塞の神(道祖神)の信仰とが習合した風習ともいわれる。

 京都では毎年8月22・23日に、京都の周辺にある街道の入口6ヵ所の地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」が行なわれています。
 この六地蔵巡りという風習は、古くは室町期からあったようなのですが、六地蔵の位置場所は時代により固定したものではなかったようで、現在のような6ヵ所の地蔵尊に固定されたのは、近世の寛文年間になってのことだそうです。

 ちなみに、『都名所圖会』には六地蔵についての伝承を次のように記す。
「六地蔵 指月の東八町ばかりにあり。此所のひがしは醍醐街道、西は伏見淀道、中に京街道あり、南は黄檗宇治に至る
地藏堂 大善寺と号す、浄土宗なり、京道の角にあり 本尊地蔵菩薩は、仁寿二年小野篁冥途に赴き、生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後一木を以て六体の地蔵尊をきざみ、当寺に安置す。保元年中に平清盛西光法師に命じて、都の入口毎に六角の堂をいとなみ、此尊像を配して安置す、今の地蔵巡りこれよりはじまる。」とあって、初めはここ伏見の大善寺に六体の地蔵尊が安置されていたが、平安時代末期の保元年間に平清盛の命により、大善寺も含めて京への出入口である街道口の6ヶ所に分けて安置するようになり、これらの六地蔵を参拝して廻る六地蔵巡りの風習が生まれたという。

 それら六体の地蔵尊が分祀された六ヶ所の寺院と街道口は次のとおり。

伏見六地蔵(奈良街道) 大善寺  伏見区桃山町西町  
鳥羽地蔵(大坂街道)  城禅寺  南区上鳥羽岩ノ本町 
桂地蔵(山陰街道)   地蔵寺  西京区桂春日町   
常盤地蔵(周山街道)  源光寺  右京区常盤馬塚町  
鞍馬口地蔵(鞍馬街道) 上善寺  北区上善寺門前町  
山科地蔵(東海道)   徳林庵  山科区四ノ宮泉水町 




2021年11月19日 (金)

「錦秋の候」となりましたね〜

Photo_20211118154401
 秋もいよいよ深まってきて、木々の葉も色づいてきました。紅葉(黄葉)のシーズンですね。

 秋になって木の葉が色づく仕組みというのは、木の葉のクロロフィルという物質が減って緑色が薄くなってくるために、他の色が目立つようになるからなんだそうです。
 モミジはアントシアニンという物質がたくさん作られて赤色になるのだそうです。そして、イチョウやブナの場合はカロテノイドという物質が目立つことで黄色になるということです。
 なァーんか、も一つどういうこかよく判りませんが・・・(汗)

 ところで、紅葉も綺麗なのですが、黄葉もまた青空に映えて大層美しいものです。

 丹後半島中央部の京丹後市大宮町の五十河、これ「いそか」と読みます。
 この一帯は、丹後半島の中でも多雪地帯ですから、廃村となってしまった所もあります。
 全国各地に小町伝説が残されていますが、この五十河にも小野小町伝承があり、小野小町が晩年を過ごしたと伝わる地に小町公園というのもあります。
 この五十河の「内山自然ブナ林」は京都の自然200選に入っています。秋のブナの林は真っ黄色になりそれはそれは見事なものでした。



2021年11月12日 (金)

鴨川運河(琵琶湖疏水)

Photo_20211112143601

 琵琶湖疎水(第一疎水・第二疎水)は、水道用水・水力発電・農工業用水・水運に使われ、明治期京都の近代化に大きく貢献したのです。(現在では水運には使われていません)
 この疎水は、滋賀県大津市三保ヶ崎の取水点から冷泉通の鴨川夷川出合まで流れ、ついで鴨川運河を伏見堀詰町(のち伏見土橋町)の壕川に至り宇治川に合流しています。

 第一疏水は1885年(明治18年)に着工、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から北方に分岐する疏水分線とが完成している。
鴨川合流点から伏見の濠川に至る鴨川運河(疎水)は、1892年(明治25年)に着工、1894年(明治27年)に完成しています。
 第二疏水は、第一疏水で賄いきれない電力需要への対応とともに、新設する上水道のための水源として、京都市により「三大事業」の1つとして進められました。1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成しています。

 さて、冒頭の写真「せせらぎの道」は、前記の鴨川運河(疎水)の一部が暗渠化された跡の姿なのです。(川端通新門前下ル)
 かつては、鴨川左岸堤防上に桜並木がありそのそばを三条まで京阪電気鉄道京阪本線の電車が走っていました。
 ところが、昭和50年前後の頃でしょうか、京阪本線と交差する道路踏切での慢性的な交通渋滞への対策を迫られるようになりました。そこで、三条駅と塩小路通の間を京阪本線とともに疏水をも地下化することによって、その上に川端通が敷設されることになったのです。

塩小路で暗渠から地上に現れた鴨川運河(疏水)

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 1987(昭和62)年に京阪電鉄と疏水は地下化され、その1年後の1988(昭和63)年に川端通が開通しました。
 (その後、平成になって三条〜出町柳間の鴨川電気鉄道(地下線)を合併して京阪鴨東線となっています。



2021年11月 5日 (金)

鉄輪(かなわ)の井

 堺町通松原下ル鍛冶屋町に住んでいた女が、浮気をした夫に捨てられて嫉妬に狂い、恨みを晴らすために貴船神社に丑の刻参りを続けて願をかけた。ところが、満願となる7日目を前にして、力が尽きたのか6日目に自宅そばの井戸端で息絶えた。そこで、女の恨みの宿る鉄輪と一緒に井戸の傍に祀った。それでこの井戸を「鉄輪の井」と言った。

金輪の井戸と祠

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 そして、この「鉄輪の井」の水を別れたい相手に飲ませると、縁を切ることができると云われ、「縁切り井戸」としても知られた。今ではこの井戸は水が涸れてしまっているのだが、水を持参して祈願しても効き目があるとの噂があるため、今も縁切りを願って訪れる人があるとか。
 この「鉄輪の井」のある鍛冶屋町、かつては鉄輪町と言ったことがあるようで、地誌書『京雀』は次のように記しています。
「かぢや町 又は金輪の町といふ いにしへ物ねたみふかき女あり かしらに金輪をいたヾき 賀茂の明神にまうでたりしが 鬼になりてにくき人ともとりけるが 後にがうぶくせられし その墳いまにこの町にあり」


 「丑の刻参り」について、広辞苑では次のように説明しています。
 「嫉妬深い女がねたましく思う人をのろい殺すために、丑ノ刻(今の午前2時頃)に神社に参拝すること。頭上に五徳をのせ、蝋燭をともして、手に釘と金槌とを携え、胸に鏡をつるし、のろう人を模したわら人形を神木に打ち付ける。7日目の満願の日には、その人が死ぬと信ぜられた。うしのときもうで。うしのこくまいり。うしまいり。」

 この文中にある「五徳」というのは、今ではまず見かけることが無くなりましたが、火鉢や囲炉裏の火の上に置いて、鍋や薬鑵などを掛ける3脚または4脚の輪形の道具で鉄または陶器製。上下を逆にして置くこともある。五徳のことを鉄輪(かなわ)とも言った。
 この五徳を上下逆にして頭に付け、その五徳の足に刺した蝋燭に火を灯し、火をつけた松明を口にくわえるという異様な姿で祈願したようです。
 そして、丑ノ刻(午前2時頃)に藁人形に五寸釘を打ち付けると、相手を呪い殺すことができる呪術といわれています。
(なんとも恐ろしい話ですね


 呪詛で名高い貴船神社に丑の刻参りをして、呪い取り殺すという話は他にも「宇治の橋姫」伝説などがあります。
 捨てられた女が丑の刻参りをして、相手の男とその後妻を呪い殺すという、その凄まじい恨みと嫉妬心の恐ろしさを、禍々しい鬼の姿で表現しているのが謡曲『金輪』なのですが、金輪の井の話が元になっているようです。




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