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2021年12月

2021年12月18日 (土)

岬神社 ーこの名は鴨河原だった名残りー

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 蛸薬師通河原町東入の備前島町にあるこの岬神社、別名を土佐稲荷ともいいます。五穀を司る倉稲魂(くらいねのみたま)、つまり稲荷神を祀るそうです。
 この岬神社は名前から判るとおり、一帯がその昔には鴨川の河原であったことを物語っているものとして注目されます。
 広く知られるように、河原町通というのは鴨川の河原であったところに開かれた通りなのです。
 元は鴨川の氾濫から守るために、鴨川畔の岬に祀られたのがこの神社の名称由来といわれ、社伝では南北朝時代の貞和4年9月28日の鎮座と伝えるのだが定かなことではない。
 くだって江戸時代の慶長期になり、この地に土佐藩の京屋敷が設けられて、明治維新の廃藩まで岬神社は同藩の鎮守社とされ、土佐稲荷とも称されたていた。

 神社の所在する備前島町は、慶長16年に高瀬川が開削された時、備前の国から船頭を招いて居所としたことから町名となった。
 高瀬川は慶長年間に、角倉了以が方広寺大仏の再建のための資材を運搬するために伏見から五条までを開削しました。その後、慶長16年に二条まで延長したもので、明治に至るまでの約300年にわたって京都・伏見間の物資輸送のための運河として、京都の産業経済に大きな影響を及ぼしたのです。


 ちょっとばかり息切れしているため、年末年始は記事の更新を休ませていただく積もりです。



2021年12月10日 (金)

京都のフランシスコ会教会

フランシスコの家
京都市下京区岩上通四条下ル佐竹町

Photo_20211210104201

 写真の右端に見える石灯籠、いわゆる「キリシタン灯籠(切支丹灯篭)」と言われるものです。
 『国史大辞典』によれば、キリシタン灯籠は庭に用いた石灯籠の一種で織部灯籠と呼ばれるものだが、古田織部の考案とする確証はないとのことです。
 灯籠下部に彫られている人物のレリーフをマリア像やキリスト像と見立てたのでしょうか。

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 スペインのアヴィラ生まれのフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタ神父が、ルソン(フィリピン)総督の日本最初の使節として文禄2年(1593)に来日。対朝鮮・文禄の役で肥前の名護屋に滞在していた豊臣秀吉に謁見し、この頃すでにキリスト教禁教令が出されていたにも関わらず、京都の妙満寺跡の広大な土地を教会用地として与えられました。
 バプチスタ神父達は翌文禄3年(1594年)にまず修道院を建てて、その一部をルソン使節館としました。また、通りに面して教会を建てるとともに、京都では初めての西洋式病院を二つ開設しました。これらはフランシスコ会が日本で開いた最初の教会(南蛮寺)・修道院・病院だということです。
 修道院近くには200名以上のキリシタンが暮らしていたので、京の人々はこの一帯を「ダイウス町(ゼウス町)」と呼び、信徒達は「諸天使の元后の町(ロス・アンジェルス)」と呼んだとか。
 文禄5年(1596)10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は、1596年12月8日に再び禁教令を公布し、京都と大坂でフランシスコ会の宣教師3人・修道士3人と日本人信徒20人を捕らえました。
 長崎に送られた彼らは、慶長元年(1597)12月19日長崎の西坂において処刑されましたが、1862年6月8日、ローマ教皇ピオ9世によって「日本26聖人殉教者」として聖人の位に列されました。

 昭和61年(1986)、フランシスコ会のルカ・ホルスティンク神父が、往時の南蛮寺跡に建つ京町屋を買い取ってゲラルド神父とフランシスコの家を開設。教会とキリスト教文化資料館としました。 
 ところが、平成24年(2012)、建物の老朽化により漏電の危険性が指摘されたことで、フランシスコの家は閉鎖され、平成25年(2013)の秋に解体されて「キリスト教文化資料館」はなくなりましたが、2014年2月に再建されたのが現在の建物だということです。



2021年12月 3日 (金)

北白川の子安観世音

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 荒神口に始まり白川越えで近江(滋賀県)に至る「志賀越道(山中越え)」が、鴨川を東に渡って東北へ進むと京都大学敷地で一時分断されるが、吉田山の北麓で今出川通を東北に横切った角地点にこの石仏はあります。
 『拾遺都名所圖絵』に、「北白川の石佛ハ希代の大像にしていづれの代乃作といふ事を志ら須。」とあり、約2メートルほどもある大きな石仏で、鎌倉時代の作とされています。
 この石仏はお地蔵さん(地蔵菩薩)ではなく、観音さん(観世音菩薩)です。

 さて、この石仏には次のような謂れがあります。
 自由に動き廻る石仏との噂があることから、太閤豊臣秀吉がこれをたいそう気に入って聚楽第に運んで据えました。
 ところが、それから夜毎に秀吉の寝所を地鳴りが襲うようになったのです。そして石仏が唸っていることに驚いて耳をすますと、「白川に帰りたい、白川に帰りたい」と言っている。それに驚いた秀吉により元の場所に戻されたという。
 この石仏、秀吉でさえも思うままにならないということで有名になり、「太閤地蔵」とも呼ばれるようになったという。
 長年にわたる風化ですっかり風姿も変わって、今ではこれはこれで柔和な感じの石仏になっています。

 なお、この子安観音は志賀越道が今出川通の北側に渡った所にあるのですが、今出川通の南西側にも二体の巨大な石仏があり、あわせて「北白川の三体仏」と称されています。




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