北白川の子安観世音
荒神口に始まり白川越えで近江(滋賀県)に至る「志賀越道(山中越え)」が、鴨川を東に渡って東北へ進むと京都大学敷地で一時分断されるが、吉田山の北麓で今出川通を東北に横切った角地点にこの石仏はあります。
『拾遺都名所圖絵』に、「北白川の石佛ハ希代の大像にしていづれの代乃作といふ事を志ら須。」とあり、約2メートルほどもある大きな石仏で、鎌倉時代の作とされています。
この石仏はお地蔵さん(地蔵菩薩)ではなく、観音さん(観世音菩薩)です。
さて、この石仏には次のような謂れがあります。
自由に動き廻る石仏との噂があることから、太閤豊臣秀吉がこれをたいそう気に入って聚楽第に運んで据えました。
ところが、それから夜毎に秀吉の寝所を地鳴りが襲うようになったのです。そして石仏が唸っていることに驚いて耳をすますと、「白川に帰りたい、白川に帰りたい」と言っている。それに驚いた秀吉により元の場所に戻されたという。
この石仏、秀吉でさえも思うままにならないということで有名になり、「太閤地蔵」とも呼ばれるようになったという。
長年にわたる風化ですっかり風姿も変わって、今ではこれはこれで柔和な感じの石仏になっています。
なお、この子安観音は志賀越道が今出川通の北側に渡った所にあるのですが、今出川通の南西側にも二体の巨大な石仏があり、あわせて「北白川の三体仏」と称されています。
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