京都のフランシスコ会教会
フランシスコの家
京都市下京区岩上通四条下ル佐竹町
写真の右端に見える石灯籠、いわゆる「キリシタン灯籠(切支丹灯篭)」と言われるものです。
『国史大辞典』によれば、キリシタン灯籠は庭に用いた石灯籠の一種で織部灯籠と呼ばれるものだが、古田織部の考案とする確証はないとのことです。
灯籠下部に彫られている人物のレリーフをマリア像やキリスト像と見立てたのでしょうか。
スペインのアヴィラ生まれのフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタ神父が、ルソン(フィリピン)総督の日本最初の使節として文禄2年(1593)に来日。対朝鮮・文禄の役で肥前の名護屋に滞在していた豊臣秀吉に謁見し、この頃すでにキリスト教禁教令が出されていたにも関わらず、京都の妙満寺跡の広大な土地を教会用地として与えられました。
バプチスタ神父達は翌文禄3年(1594年)にまず修道院を建てて、その一部をルソン使節館としました。また、通りに面して教会を建てるとともに、京都では初めての西洋式病院を二つ開設しました。これらはフランシスコ会が日本で開いた最初の教会(南蛮寺)・修道院・病院だということです。
修道院近くには200名以上のキリシタンが暮らしていたので、京の人々はこの一帯を「ダイウス町(ゼウス町)」と呼び、信徒達は「諸天使の元后の町(ロス・アンジェルス)」と呼んだとか。
文禄5年(1596)10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は、1596年12月8日に再び禁教令を公布し、京都と大坂でフランシスコ会の宣教師3人・修道士3人と日本人信徒20人を捕らえました。
長崎に送られた彼らは、慶長元年(1597)12月19日長崎の西坂において処刑されましたが、1862年6月8日、ローマ教皇ピオ9世によって「日本26聖人殉教者」として聖人の位に列されました。
昭和61年(1986)、フランシスコ会のルカ・ホルスティンク神父が、往時の南蛮寺跡に建つ京町屋を買い取ってゲラルド神父とフランシスコの家を開設。教会とキリスト教文化資料館としました。
ところが、平成24年(2012)、建物の老朽化により漏電の危険性が指摘されたことで、フランシスコの家は閉鎖され、平成25年(2013)の秋に解体されて「キリスト教文化資料館」はなくなりましたが、2014年2月に再建されたのが現在の建物だということです。
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