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東鴻臚館址の碑
下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)
東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。
「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。
平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。
この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。
京都駅ビルのガラス壁に映る京都タワー
このタワーは、JR京都駅の正面(烏丸口側)を出ると否が応でも目に入ってしまいます。
昭和39年(1964)、東海道新幹線開通・(前回の)東京オリンピック開催の年に開業しています。
京都市内の町家の瓦葺き屋根を波に見立てて、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものだそうです。また、仏教諸宗派の本山が集中する京都らしく、蝋燭(ろうそく)をイメージしたものとも言われました。
しかし、恰好のランドマークとなっているタワーですが、建設の当時には何かとあげつらわれる存在でした。手前などは俗悪とは言いませんけれども、どう見ても優雅とは言いかねるこのタワーは、いまだにシックリと馴染めません。
そんなことで正面から向き合うのも何となく気恥ずかしいものですから、冒頭の写真は京都タワーに背を向けて、対面にある京都駅ビルの巨大なスモークガラス壁面に映ったタワーを撮したものです。
さて、京都は長い歴史を持つ都市として町の景観を重視しています。
このため、建築物については原則的に31mという高さ制限を設けています。もっとも現在では地域により、特例許可として例外が認められるようになってきています。
ところが、この京都タワーはなぜか131mの高さがあります。これは、建築基準の制限一杯である31mのビルの上に、100mのタワーが設置されれたということのようです。つまり、タワー部分は建築物ではなく電波塔であるため、高さ制限の規制外の扱いとされたのです。