行願寺(革堂)
行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。
行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。
行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。
行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。
加茂明神石塔
五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏
境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。
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