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2022年7月22日 (金)

奔放な女流歌人 ー和泉式部ー

 和泉式部は平安時代中期の女流歌人で、勅撰和歌集に収録された歌は246首にもおよぶ。才色兼備の閨秀歌人で、その奔放にして情熱的な歌いっぷりは有名です。
 中古三十六歌仙の一人とされ、女流歌人では清少納言や紫式部なども入っている。
 
世の中に 戀てふ色は なけれども 深く身にしむ ものにぞありける
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな
 これらは『後拾遺和歌集』に収録され、百人一首にも選ばれている歌ですが、まさに艶歌(つやうた)ですね。

和泉式部塔(宝篋印塔)
 新京極通六角下ル東側に、和泉式部寺と俗称される誠心院(正式には華嶽山東北寺誠心院)という寺院がある。ここには古くから式部の墓といわれる宝篋印塔があって、塔身正面に阿弥陀三尊の梵字を刻している。
Photo_20220721160101
 御堂関白藤原道長の娘で、一条天皇の母である上東門院彰子の勧めで建立された三昧堂東北院の内に和泉式部のために小堂を建立、式部の死後、法名の誠心院専意法尼に因んで誠心院としたのが起こりとされる。
 (*東北院=上東門院彰子の発願による三昧堂は、道長の建立した摂関政治期最大の寺院である法成寺の艮(東北)の角に位置したことで東北院と称された)
 東北院が廃絶したあと、誠心院は上京区一条小川の誓願寺のそばに再建されたが、天正年間には誓願寺の移転に伴って現在地に移っている。


 和泉式部は越前守大江雅致の娘で、はじめ和泉守橘道貞と結婚したことで和泉式部といわれた。しかし、生まれつき放蕩であったことから離婚する。ちなみに、道貞との間に生まれた娘の小式部も母譲りの和歌の才能があった。
 まだ道貞の妻であった時、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になり、世間にその仲を言いはやされる。しかし、親王が亡くなるとその弟である敦道親王と密通し、親王が式部を屋敷に迎え入れようとしたために敦道親王夫人は家出。式部もまた道貞との夫婦生活が破綻して離婚、父の雅致からも勘当される。
 『和泉式部日記』は、この敦道親王との2年間にわたる恋の記録で、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。
 敦道親王の死後、式部は上東門院彰子に仕えるが、まもなく彰子の父の家臣である藤原保昌に再嫁する。そして、保昌が丹後守に任ぜられたため共に丹後にくだる。しかし、晩年の消息については明らかでない。

和泉式部の歌碑
Photo_20220721160102
 「霞たつ 春きにけりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」
 本堂脇にある碑の傍に、式部が生前愛でた「軒端の梅」にちなんで梅が植えられいた。この歌にある「此花」は梅を指していて、『都名所圖會』には「泉式部塚」のかたわらに彼女が生前に愛した「軒端(のきば)の梅」が描かれている。




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