東京の木製仁丹町名表示板 その3
東京市の木製仁丹は他でも見つかるか?
東京市は太平洋戦争の際、昭和17年(1942)4月18日の空襲を初めとして、敗戦までに100回を越える空襲で罹災しています。
特に昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折には、主にいわゆる下町の深川区(現・江東区)本所区(現・墨田区)浅草区(現・台東区)の広範囲にわたって罹災しました。
ところが、観光ガイドブックに「谷・根・千(やねせん)」とある一帯(台東区西端にあたる谷中、文京区の根津から千駄木にかけて)と、本郷(現文京区の東部)は大空襲による戦災を免れていました。そのため、現在でもその一帯の裏通りには東京の下町情緒・雰囲気が残っているのです。
「夕やけだんだん」から谷中銀座を望む
かつて、私は鶯谷をスタートして、谷中・根津・本郷にかけての一帯を歩いて回ったことがあるのですが、表通りからちょっと裏手に入ると多くの古い民家が残っていました。
しかし、東京も他の都市と同様に『住居表示に関する法律』などの影響により、見境いなく従来の町名地番を大町名に変え、さらには◯丁目◯番地といった形に整理してしまったことから、元の町名は根こそぎ抹殺されてしまいました。このため、元々の地名の由来や意味などが全く分からなくなるという愚を犯していたのです。
この根津も昭和40年(1965)4月1日に、根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町など根津全町と、向ヶ丘弥生町の一部を併せた町域が現在の「根津」となりました。そして「不忍通り」を境界として、西側が根津一丁目、東側が根津二丁目となっています。ちなみに、この一帯の行政区名は元々は「本郷区」だったのですが、現在では文京区に属しています。
このように町名変更があったため、元々設置されていた町名表示板は用をなさなくなって、そのほとんどが姿を消すことになったのでしょう。今回発見された木製仁丹町名表示板の「本郷区 根津須賀町四番地」は、たまたま生き長らえていた貴重な一枚なのです。
戦災を免れた一帯について悉皆調査をすれば、このように幸運にも関東大震災と東京大空襲による被災から免れて、今なお残存している町名表示板が見つかったとして不思議ではないと思われます。
本郷の路地のような細道
上の写真、本郷四丁目にある樋口一葉旧居跡の近辺なのですがこのイー雰囲気たまりませんネ!
菊坂下通りの一帯を歩くと、なんとも言えないいい感じの路地のような細い道があり、多くの古い建物やまだ現役の手押しポンプなどもあり、古い仁丹町名表示板が残っていそうな感じです。
そして、周辺をぶらぶら歩きしていると、樋口一葉・宮沢賢治・金田一京助・石川啄木・坪内逍遥など、文人の旧居跡に行き当たるのも楽しいものです。