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2022年12月

2022年12月30日 (金)

誓願寺の六地蔵石幢

 新京極通六角に、誓願寺という浄土宗西山深草派総本山の寺院があります。
 清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺として名高い。
また、このお寺は芸道上達のお寺としても広く信仰を集めています。  
 
 今年の夏、この誓願寺へ山脇東洋(江戸時代中期の医学者)の墓を訪ねて行きました。
 この時、誓願寺墓地の入り口を入ってすぐ近く、覆屋の中に傷んで破損した石塔があるのに気がつきました。説明書きによると「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と称されるものです。
 石幢というのは鎌倉時代の頃から造られていたようで、単制石幢と重制石幢の2種類があるそうで、誓願寺のものは重制石幢です。
 重制石幢は通常、宝珠・笠・塔身(龕部)・中台・竿・基礎の六つの部分からなっていて、一見したところは石灯籠風の石塔で、笠の下の龕部(がんぶ)に六地蔵を彫ったものが多いようです。

 この誓願寺の六地蔵石幢は、、誓願寺墓地では最古の石仏だそうで、高さが約136センチで、石材を六角形に加工した六面体の石塔です。
 その六角形の幢身の各面には、浅く光背が彫られ、蓮華(れんげ)座に立った、像高約36センチの地蔵菩薩立像が肉厚に浮き彫りされています。地蔵菩薩は六角形のそれぞれの面に刻まれてているのですが、そのうち1体は欠損しています。

Photo_20221230121201
 ところが、惜しいことにはこの石幢は完全な形ではなく、幢身(どうしん)部分だけが残されていて、龕部の上部にあったとみられる笠や宝珠は失われてしまってありません。
 この幢身頂部には龕穴(がんけつ)が開いており、ここには経典が納められていたようで、その上に笠石を載せて閉じられていたと考えられます。

〈 幢身の左上部が欠損している 〉
Photo_20221230121301


 錫杖(しゃくじょう)を持った地蔵菩薩の下部には、次のように願文が刻まれています。
「一結衆并無縁六親/右意趣者為/眷属乃至法界平等利益故也/永享11年11月24日敬白」とあることから、室町時代の初期にあたる永享11年(1439)に造られたことがわかります。




2022年12月16日 (金)

俳人山頭火と京都

 俳句には、季題を含んだ五・七・五の定型を基本とするものと、定型と季題に捉われない自由な音律による俳句があります。
 自由律俳句は河東碧梧桐・荻原井泉水などが提唱したもので、種田山頭火はこの井泉水に師事しました。

種田山頭火像(山口県 JR防府駅前)

Photo_20221215164801

 山頭火は、句作の力量ではずば抜けていました。しかし、いきさつは省略しますが、人生の後半には家と家族を捨て、放埒三昧と酒のため「脱落者」としてもちょっとした人でした。また、人の温情・好意に頼りすぎて毀誉褒貶の相半ばする人だったようです。

 人生に挫折し酒に溺れ、大正14年3月43歳の時に俗世を捨てて出家得度します。
 しかし、一代句集『草木塔』に「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。」と前書きを付けた句、「分け入っても分け入っても青い山」を入れています。
 9歳の時の母の自殺に始まる生家の不幸・悲劇が山頭火には呪縛となっていたが、この呪縛から抜け出して俳句に生きるため、一所不住・雲水不住の放浪の旅に出ました。
 うしろすがたのしぐれてゆくか
 鉄鉢の中へも霰
 あるけばかっこういそげばかっこう 

 この時の3年もの長旅を初めとして、59歳で亡くなるまでまでに1ヶ月以上に及ぶ旅を8回もおこなっています。
 この間、昭和11年には7ヶ月にわたる大旅行に出ました。『旅日記』によれば3月18日〜23日は、句友を頼って京都で過ごしています。

芭蕉堂(東山区鷲尾町)
 芭蕉堂は芭蕉の句「しばの戸の月やそのままあみだ坊」を生かし、高桑闌更(江戸時代の俳諧師)が営んだ草堂。堂内の芭蕉木像は蕉門十哲の一人森川許六が刻んだとか。
 なお、山頭火・芭蕉ともに西行法師の影響を強く受け、各地を放浪して多くの句を残したが、芭蕉堂の東隣には西行庵がある。
 西行庵の北東の雙林寺にあった塔頭蔡華院で、西行が諸国行脚の後で杖をとめて広く知られる次の歌を詠んだ。
  願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃

Photo_20221215165901

3月18日……石清水八幡宮、南禅寺、夜に新京極
3月19日……八坂の塔、芭蕉堂、西行庵、知恩院、南禅寺、永観堂、銀閣寺等々
3月20日……北野、鷹ヶ峰、庵(源光庵か?)、光悦寺、金閣寺
3月21日……雨で滞在
3月22日……宇治、木津
3月23日……大河原、笠置、月ヶ瀬

 この間の作句で、『草木塔』の「鉢の子」に納められているのは、
  あてもない旅の袂草こんなにたまり
  たたずめば風わたる空のとほくとほく
  雲のゆききも栄華のあとの水ひかる
  春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
  うららかな鐘を撞かうよ

 この後、伊賀上野、津、伊勢を経て東上し、無一文ながら行乞はほとんど行わず、禅僧姿で俳友を訪ね招かれて、鎌倉・東京・甲州路・信濃路・新潟・山形・仙台・平泉を経巡り、福井にとって返して永平寺に参籠、ようやく7月22日に小郡の其中庵に帰っています。この旅では芭蕉・一茶・良寛の跡をも訪ねています。

 山頭火は酒好きで身を誤ったともいえ、俗事を離れて心から酒を楽しむ酒仙ではなく、しばしば泥酔から醒めてのちに自己批判をしており、日記(昭和6年12月28日)に「あゝ酒、酒、酒、酒ゆえに生きてもきたが、こんなにもなった、酒は悪魔か仏か、毒か薬か」と書いています。
 そして、昭和10年8月8日、山頭火は其中庵(山口県小郡)の草庵で自責と孤独に耐えかね、また句作の行き詰まりもあり、大量のカルモチンを呷って自殺を図るも未遂に終わっています。
 この自殺騒ぎの後に、先に記した7ヶ月及ぶ大旅行を敢行していたのです。



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