俳人山頭火と京都
俳句には、季題を含んだ五・七・五の定型を基本とするものと、定型と季題に捉われない自由な音律による俳句があります。
自由律俳句は河東碧梧桐・荻原井泉水などが提唱したもので、種田山頭火はこの井泉水に師事しました。
種田山頭火像(山口県 JR防府駅前)
山頭火は、句作の力量ではずば抜けていました。しかし、いきさつは省略しますが、人生の後半には家と家族を捨て、放埒三昧と酒のため「脱落者」としてもちょっとした人でした。また、人の温情・好意に頼りすぎて毀誉褒貶の相半ばする人だったようです。
人生に挫折し酒に溺れ、大正14年3月43歳の時に俗世を捨てて出家得度します。
しかし、一代句集『草木塔』に「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。」と前書きを付けた句、「分け入っても分け入っても青い山」を入れています。
9歳の時の母の自殺に始まる生家の不幸・悲劇が山頭火には呪縛となっていたが、この呪縛から抜け出して俳句に生きるため、一所不住・雲水不住の放浪の旅に出ました。
うしろすがたのしぐれてゆくか
鉄鉢の中へも霰
あるけばかっこういそげばかっこう
この時の3年もの長旅を初めとして、59歳で亡くなるまでまでに1ヶ月以上に及ぶ旅を8回もおこなっています。
この間、昭和11年には7ヶ月にわたる大旅行に出ました。『旅日記』によれば3月18日〜23日は、句友を頼って京都で過ごしています。
芭蕉堂(東山区鷲尾町)
芭蕉堂は芭蕉の句「しばの戸の月やそのままあみだ坊」を生かし、高桑闌更(江戸時代の俳諧師)が営んだ草堂。堂内の芭蕉木像は蕉門十哲の一人森川許六が刻んだとか。
なお、山頭火・芭蕉ともに西行法師の影響を強く受け、各地を放浪して多くの句を残したが、芭蕉堂の東隣には西行庵がある。
西行庵の北東の雙林寺にあった塔頭蔡華院で、西行が諸国行脚の後で杖をとめて広く知られる次の歌を詠んだ。
願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃
3月18日……石清水八幡宮、南禅寺、夜に新京極
3月19日……八坂の塔、芭蕉堂、西行庵、知恩院、南禅寺、永観堂、銀閣寺等々
3月20日……北野、鷹ヶ峰、庵(源光庵か?)、光悦寺、金閣寺
3月21日……雨で滞在
3月22日……宇治、木津
3月23日……大河原、笠置、月ヶ瀬
この間の作句で、『草木塔』の「鉢の子」に納められているのは、
あてもない旅の袂草こんなにたまり
たたずめば風わたる空のとほくとほく
雲のゆききも栄華のあとの水ひかる
春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
うららかな鐘を撞かうよ
この後、伊賀上野、津、伊勢を経て東上し、無一文ながら行乞はほとんど行わず、禅僧姿で俳友を訪ね招かれて、鎌倉・東京・甲州路・信濃路・新潟・山形・仙台・平泉を経巡り、福井にとって返して永平寺に参籠、ようやく7月22日に小郡の其中庵に帰っています。この旅では芭蕉・一茶・良寛の跡をも訪ねています。
山頭火は酒好きで身を誤ったともいえ、俗事を離れて心から酒を楽しむ酒仙ではなく、しばしば泥酔から醒めてのちに自己批判をしており、日記(昭和6年12月28日)に「あゝ酒、酒、酒、酒ゆえに生きてもきたが、こんなにもなった、酒は悪魔か仏か、毒か薬か」と書いています。
そして、昭和10年8月8日、山頭火は其中庵(山口県小郡)の草庵で自責と孤独に耐えかね、また句作の行き詰まりもあり、大量のカルモチンを呷って自殺を図るも未遂に終わっています。
この自殺騒ぎの後に、先に記した7ヶ月及ぶ大旅行を敢行していたのです。
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