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2023年3月24日 (金)

白川(白河)⇒ 岡崎

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 琵琶湖疏水が流れる岡崎公園の一帯は約14万平方メートルの広さがあり、そこには多くの文化施設が集中していて京都の文化ゾーンとなっています。
 この「岡崎」という地名は、神楽岡(吉田山)や粟原岡(黒谷山)が、南の平地に向かって岬のように突き出した地形となっていることからきた名称です。
 鴨川の東側で三条通の北となる「岡崎」は白川の下流に位置しています。滋賀県との境界にあたる比叡山と如意ヶ嶽の間を水源とする白川は花崗岩地帯を流れて北白川に至り、浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺・岡崎を経て鴨川に合流します。
 「岡崎」の旧称である「白河(白川)」は白川流域にあることに由来しているが、この白河の地は平安京洛外の景勝地で、平安時代前期の頃から貴族が別業(別荘)を構えたり、遊山に出かけたりしました。
 中世になると、応仁の乱などで寂れ荒廃して岡崎村の耕地となっていたのですが、江戸時代になると風光を愛でる文人墨客が多く移り住んで居を構えました。

 白河に設けられた別業の中でも、古くから藤原家代々の別業であった「白河院」は有名でした。
 承保2年(1075)に左大臣藤原師実がこの白河院を白河天皇に献上して、天皇はここにかつてなかったような壮大な寺院の法勝寺を建立しました。金堂をはじめ多くの堂塔が建立されましたが、なかでも高さが約82メートルの途轍もなく壮大な八角九重塔が聳えるさまは、さぞ人々を驚かせたことでしょう。
 その後、代々の天皇が「勝」の字がつく五つの御願寺、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を建立して、法勝寺と合わせて「六勝寺」と称されました。
 琵琶湖疏水沿いの散策路は「六勝寺のこみち」と名付けられていて、桜や柳の緑陰をそぞろ歩きが楽しめます。
 六勝寺の寺院名は、岡崎法勝寺町・岡崎最勝寺町・岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町といった町名となって今に伝わっていますが、尊勝寺と延勝寺については残っていません。

 六勝寺が造営されたことで、大寺院の堂宇が聳えて並び立つ白河の地は一変しました。
 さらに白河天皇は皇位を堀河天皇に譲り、自身は上皇となって院政(政治)を開始し、院政を行う白河御所が造営されます。この白河上皇の白河御所(白河南殿)や白河北殿が、御願寺の法勝寺の西側の造営されます。そこで始まった院政が長かったゆえに院政時代とも言われる時代となりました。
 さて、ここからがこの記事の本題(のつもり)なのです。冒頭の仁丹町名表示板「岡崎南御所町」と共にご覧ください。
 法勝寺跡にあたる京都市立動物園の西側に位置している、岡崎南御所町とその北隣の岡崎北御所町という町名は、白河南殿と白河北殿の名残を留めているものと考えても、あながち見当はずれとは言えないと思うのですがどんなものでしょう。

 こうして、「京=ミヤコ」(平安京)の東の境界である鴨川を越えて、洛外であった「白河」の地が政治の中心地になると、「京」と「白河」の両方を含めた地名(固有名詞)として「京都」という言葉が使われるようになりました。
 ちなみに、その後も院御所は、後鳥羽上皇の時代に押小路殿と岡崎殿が造営されています。
 【注】押小路殿は、鴨川東の押小路末南で、左京区頭町・正往寺町・福本町の一帯にあった。岡崎殿は、法勝寺の北東にあったとされるので、冷泉通の北になるようです。




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