宝永大火と京都の整備改造
江戸時代の京都では、三大大火といわれた大火災が、ほぼ80年ごとに発生していました。
宝永の大火 宝永5年 (1708)3月 8日
天明の大火 天明8年 (1788)1月30日
元治の大火 元治元年(1864)7月19日
このうち、「天明の大火」についてはかつて(2021.10.22『天明の大火(団栗焼け)』)で
記事にしたことがありました。今回は「宝永の大火」についてです。
これら京都三大大火の他にも大小多くの火災が発生しています。これは、近世までの住環境は家屋が密集しているうえ、板葺きや茅葺など容易に燃える構造の家屋が多かったことにもよります。
宝永5年3月8日、京都中心部の広範囲を焼失して、翌9日にようやく治まるという大火災が発生しました。
『京都坊目誌』にはこの宝永の大火について、「午の刻今の正午十二時也油小路姉小路下る、西側二軒目、両替商伊勢屋市兵衛方より出火し、悪風忽ち吹て或は東北に、或は東南に焚け広がり、延て宮城を炎上し、公卿の第宅、武家の邸舎、神祠仏宇灰燼に帰し、火飛て下賀茂河合社を焚き延て村民の家八十七戸焼く。」とあります。
消失した区域は、「京町数三百六十四町、一万三千五十一戸、神社七、寺院七十四、其他被害挙て数ふへからず。」
被害区域は、「東は賀茂川、西は油小路西入、南は四條上る。北は油小路椹木町より東北に進む、寺町頭に至り九日未刻今の午後二時に止む。」という大規模な火災でした。
現在の京都御苑は、東は寺町通・西は烏丸通・北は今出川通・南は丸太町通に囲まれていて、整然とした長方形の形になっています。
宝永の大火の前、御所と公家屋敷の集中する公家町の範囲は狭いものでした。現在の京都御苑の南の部分、丸太町通から北の椹木町通までの間と、烏丸通から東の東洞院通までの間は町地だったのです。
大火の後、復興にあたっては公家町の拡張のためにこれら町屋地域は立ち退きを命じられて、人々が住み慣れた町は破壊されてしまいます。
頂妙寺
「仁王門通」の名称由来は、山門の奥に見える仁王門に安置されている二天に因むというのだが・・・?
移転を命じられた町屋の多くは鴨川東部の、仁王門通を挟んだ二条通と三条通の間、頂妙寺周辺に移転させられました。その時、もと住んでいた土地に思いを馳せて、移転先の居住地で通り名や町名を名付けるにあたって、旧地の名称に「新」を付けて新車屋町通・新東洞院通・新間之町通・新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通などと命名しています。
また、西寺町通りは寺町通の荒神口から二条の間にあった多くの寺院が、移転してきたのです。
二条河東へ移転を命じられた町屋とともに、高倉通椹木町の北にあった頂妙寺も仁王門通川端東入大菊町に移転させられています。
ところで、世間では「仁王門通」という名称は頂妙寺の持国天・多聞天の二像を安置する仁王門にちなむとしていますが、これ実は誤りなのだそうです。頂妙寺の公式HPにもそのようには記されていません。
『京都坊目誌』によると、元来、仁王門通という名称は頂妙寺がこの地に移転してくる前からあった通り名であり、むかし平安時代に現・岡崎法勝寺町(市立動物園のあたり)に造営された六勝寺の一つ、法勝寺(白河天皇の御願寺)の仁王門に由来していて、「法勝寺仁王門通」を意味するのだそうです。
なお、公家町の拡張と新しい町屋建設のため、御所南部の町屋が移転を命じられて移住して行った先は鴨東の二条河東以外にも、内野(西陣や聚楽第跡)の一番町から七番町の一帯、御所・公家町東方の鴨河原の西三本木・東三本木などがありました。
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