高 瀬 川
高瀬川沿いの木屋町通では、三条から四条辺りにかけての一帯が京都でも主だった繁華街の一つになっている。透き通ったきれいな水が浅瀬を流れていて、京都らしい雰囲気をたたえた観光スポットになっています。
『京都坊目誌』には、「文化文政以来鴨川に沿ひて酒楼旗亭を設け、遊宴娯楽の場と為る」とありますが、現在もなお京都で有数の飲食店街です。
高瀬川は、鴨川の二条大橋西畔から水を取り入れて南流、南区東九条で鴨川を東岸に渡って再び南下、伏見の市街地西部を流れて宇治川に合流しています。
そして、その宇治川は京都府と大阪府の境界辺りで桂川・木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流入しています。
高瀬川は方広寺大仏再建の資材を運搬するため、角倉了以・素庵親子が開鑿したものではじめは伏見から五条まで通じたが、のちに私費で二条まで延長したのです。慶長16年(1611)に竣工したともいわれますが、諸説があって明らかではないようです。
支配者が豊臣から徳川に替わって政治の中心が伏見城から二条城に移ると、大坂から伏見に運ばれて陸上げされた物資を京の中心まで運ぶ手段は、竹田街道・鳥羽街道の陸路以外にはありませんでした。そこで、物資を舟運輸送するために開削された運河が高瀬川なのです。
最盛時には248隻の舟が就航したといわれています。この舟運は大正9年(1920)まで使われていました。
物資を輸送する高瀬舟
5・6隻を繋いで一組とした舟の列を、15〜16人の曳き子が「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、柳の下の岸づたいに綱で引いてのぼったという。(画像が小さくて見づらいですが、絵をクリックすると拡大できます)
角倉家は高瀬川の支配と物資輸送を独占して、大坂・伏見の物資は高瀬川を経て京の中心地に輸送されました。使われた舟は舷側が高く、浅い水深に合わせて船底が平らな喫水の浅い高瀬舟で、高瀬川の名前の由来とされる。
史跡 高瀬川一之舟入碑
背後に見える復元された高瀬舟の左手奥に、「一之舟入」があるが今では金属の柵で川と隔てられている。
舟入は高瀬川の右岸から西に向けて、奥行き約85m・幅約10mの堀割になっていたが、今ではその周辺にまで人家が立ったため狭まっている。
かつて、高瀬川の川筋には物資の積み下ろしや、舟の方向転換のために9ヶ所の舟入が設けられていたようです。しかし、今では史跡に指定された「一之舟入」を除いては、全て埋め立てられてしまい無くなっています。
おしまいに高瀬川沿いの道、木屋町通について
高瀬舟で輸送された物資の主なものは、住民の日常生活に必要な材木・薪炭をはじめ米・塩などで、高瀬川沿岸にはそれらを商う商家や倉庫が軒を並べ、商人や職人たちが同業者町を作っていました。その名残として、樵木町・材木町などとともに船頭町・車屋町など多くの町名として残っています。
このように川沿いの道には材木屋や薪炭・薪屋が多かったことから樵木町(こりきちょう)と称されたが、いまでは通称にしたがって木屋町通となっている。
この木屋町通は高瀬川沿いに町並みができていったもので、初めは極めて狭い道のきわに店舗・倉庫があったが、後の明治28年ここに電気鉄道を通すことになり、これらが撤廃されて拡幅のうえ道路としました。さらに、明治43年には軌道敷き拡幅のため高瀬川畔にあった柳などの風致木を伐採して、1mほどを埋め立て今のような規模の道になったようです。
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